冬眠日記その31~仕事初めに思い出すことじゃないけど、の巻~

「(成績が)Cの子をBにするのが私たちの仕事じゃないん?」そう言われた僕は、怒りのあまり言葉を失った。

 

と書くと何やら不穏な始まりだが、今日は仕事初めということで、頭を仕事に切り替えてみよう。

 

上の発言はどういう状況で言われたのかから書かなきゃな。これは昨年度の3学期の算数の成績を見せた時に担任から言われた言葉である。まず、この時点で担任は変わっていた。4月からの担任(講師)は頑張ったが3学期途中で力尽き(メンタルをやられ)、勤務校を去った。その代わりに学校のナンバー3である教務が担任となっていた(教務と兼任していた)。

 

そんで、その教務がまぁ、今まで何度か書いている人で、とにかく子どもをがんじがらめに管理する人だった。つまり恐怖政治を子どもにも大人にも行っていた人だった。僕が一昨年病休をすることになったのはこの人が原因だ。そして昨年度は1人が辞め(さっき書いた講師)、1人が病休に追い込まれた。

 

僕は絶対にその人と関わりになるのはごめんだと思っていた。当時僕はその学年の算数少人数を担当していたので、担任と関わるのは避けられない、どうしよう、と思っていたが、その人は負担が大きいからと言って僕に一斉で授業をしてくれと押し付けてきた。まぁ、その方がこっちも都合がいいやと思っていたが、問題は成績である。

 

この学年はかなり学力が低かった。算数だとそれが顕著に表れる。だから3学期末の成績をつける時、あらかじめ実態を知っておいてもらった方が良いかな?後でごちゃごちゃ言われるのも嫌だしな、と思って、シビアに(というか、より正確に)Cをつけた。当然かなりの人数がCとなった。僕としては当然後で調整するつもりだった。隣のクラスの担任にもその旨は伝えた。しかし、念には念を入れて隣のクラスの担任と一緒に話をしに行った(「もし、俺が途中でキレたら止めて」と言っておいた)。成績を見せた時の反応は、最初は驚き、次に僕に対する懐疑、だったと思う。

 

「ドリルは?全部した?」と聞かれ、(この子らが全部できるわけないじゃない)と思いながら、「まだですよ」と答えると、全部とにかくさせてと言う。そしたら子どもにも達成感が生れるからと言う。そして出てきた言葉が最初に書いた「(成績が)Cの子をBにするのが私たちの仕事じゃないん?」である。僕は言葉に詰まった。あまりにも色々な事が駆け巡り過ぎて。隣のクラスの担任は黙ったまんまだった。若手だもの、何か思っていても言えるはずもない。

 

結局何とかドリルを終わらせようという話で落ち着いてその場は終わった。僕は心の中では「無理」と思っていた(それは言えなかった)。ずっとモヤモヤしたまま帰った僕は帰り道の途中で言うべき言葉を見つけた。こんな感じだ。

 

(書くのは3回目だが)「(成績が)Cの子をBにするのが私たちの仕事じゃないん?」という言葉に対して「それは〇〇さんの仕事観なり、教育観であって俺の仕事観ではない。同じ場所で働いているからといって、同じ考えで働いているとは限らない。〇〇さんの考え方だと、子ども達全員が100点を取らなければ許されないことになると思う」「俺はCの子にそれ(100点を取ること)を求めない。でもその子に達成感が持てる関わりをしていきたい」とその場で言うべきだったと思う。どうしてこれが言えなかったのだろう。いつもそうだ。大事な時になると怒りのあまり言葉が出なくなってしまう。

 

しかし、もう一人の僕はこう囁く。「もし、思っていることをそのまま言ったら、または言えたら血を見ることになるぞ」「それで失敗もしてきただろ?」と。

 

それも分かる。分かるが、こういうことは何かの拍子にふっと頭をよぎり、僕はくよくよしてしまうのだ。今みたいに。主治医からは「そんなの気にしていたら体がいくつあっても足りない」「受け流しておきなさい」と言われるが、僕の心の中に澱のように留まっていて時折こうして僕を悩ませる。

 

仕事初めにしては暗い話題だったかな。まあいいか。あ、結局〇〇さんは校長にこの事案を相談しに行き、校長にhanamiの意志を尊重しろと言われたようだ。僕は、隣のクラスと調整し、〇〇さんに成績を持っていった。

 

 

 

さあ、ここからは(僕にとって)もっと楽しい話題について書こう。プロレスにしようかな。アントニオ猪木長州力の試合について書こう。この2人は何度もシングルで戦っているがいい試合と言えばこれ!というのが2つある。1つ目は、「昭和59年4月19日/蔵前国技館/正規軍VS維新軍5対5勝ち抜き戦」で13分44秒卍固めからのレフェリー・ストップで猪木の勝利。2つ目は「同年8月2日/蔵前国技館」の試合で29分39秒寝技式アバラ折りで猪木のフォール勝ちである。

 

1つ目の試合は、当時(昭和58年)長州が結成した維新軍団との抗争が激しくなった結果の5対5勝ち抜き戦である。副将同士の戦いが引き分けになったので大将の猪木と長州が雌雄を決することになった。今思えば、この2人の試合にしては13分は短すぎる。さらに今の目で見ると、完全に猪木が試合を作っている。というか猪木のリズムで試合が行われている、と言った方が誤解は少ないか。長州力は、バックドロップ(投げ技)、サソリ固め(締め技)、ラリアット(打撃技)を武器にのし上がっていった選手である。彼のプロレスは「ハイスパートレスリング」と呼ばれて外国人選手から嫌われていた。ゴングが鳴った瞬間から「俺が俺が」という調子でスタンドでの技を相手にかけていくからだ。

 

しかしこの試合では(次の試合でもそうだが)ハイスパートレスリングは影を潜め、完全に猪木ペースである。やはり原因はグラウンドでの技の引き出しの多さであろうか。猪木は次から次へとヴァリエーション豊かに技を出していくのに対して長州は自分が有利な態勢になってもなかなか手が出ない。しかも猪木は瞬発力も(当時はまだ)あるもんだから、スタンドでも張り手やらドロップキックやらやりたい放題である。一見すると長州がサソリ固めで優勢に見えても、それは猪木が反撃するための「見せ場」として成立しているように見える。しかし猪木は3カウントを取る技で仕留めなかった。卍固めという誰が見ても動けない状態を作り上げることによって、観衆に納得感を与える勝ち方を選んだ。

 

対して2つ目の試合はどうかというと、所謂「名勝負モード」の試合である。さっきの13分でも長州は自分のリズムを作ることができなったのに、30分近くを自分のリズムで闘えるはずがない。猪木は前回よりさらに引き出しの豊富さを見せつけ、サソリ固めでたっぷりやられた後に、逆転勝ちをした。今回は瞬時に決めて3カウントをとる技だった。つまり長州はコテンパンにされたわけではなかった。この試合ではそういう勝ち方を猪木は選んだ。

 

この試合の翌月、長州は新日本を離脱を発表、ジャパンプロレスを設立することになる。事実上アントニオ猪木新日本プロレスから離れてジャイアント馬場全日本プロレスに戦いの場を移すことにしたのである。

 

 

でも猪木やら長州やらの場合は何年越しの物語だから、点のひとつである1試合のことを語ってもあんまり読者には伝わらない。そこに至る背景のことを描かなければいけないんだけど、これがなかなか難しいんだよ。