hanami1294のブログ

現在休職中の小学校教員のつぶやきです(只今復職中)。

冬眠日記その32 ~スペンサーは永遠だ、の巻~

昨日仕事に行ったら早速目が覚めるのが早くなった。現在朝の3時である。でも5時間は連続して眠ることができたので良しとしよう。明け方少し眠れればいいのだが。(←少し眠れた)

 

 

この年末年始で5冊の本を読んだ。僕としては驚異的なペースである。あ、もちろんスペンサーシリーズではあるが。「昔日」「冷たい銃声」「灰色の嵐」「春嵐」「真相」の5作である。そろそろこのシリーズについて少し力を入れて書く時が来たのかもしれない。

 

スペンサーシリーズは「ゴッドウルフの行方」(1973)から40作目の「春嵐」(2011)まで続いた長大なシリーズである。作者はロバート・B・パーカー(1932―2010 享年77歳)。彼が亡くなったことは新聞の片隅に載った小さな記事で知った。それを見た僕は、忌野清志郎三沢光晴が亡くなった時とは違い、すごく衝撃を受けたわけではなかったが、やがて悲しみがじわじわとやって来た。かれこれ20年以上読み続けていたもんな。

 

スペンサーシリーズで人気のある作品といえば、「初秋」(1980)「レイチェル・ウォレスを捜せ」(1980)の2冊がまず挙げられるだろう。「初秋」は育児放棄されてあらゆることが歪んでしまった少年(ポール・ジャコミン)をスペンサーが引き取り、男として、人間として育てあげることがメインになっている物語である。「レイチェル・ウォレスを捜せ」は、女性運動家?違うな、思想家のレイチェル・ウォレスの警備に当たっていたスペンサーだったがお互いのルールをめぐってレイチェルと対立し、解雇された後に彼女が誘拐され、彼女を救うべくスペンサーが悪と対決する、という物語である。「レイチェル~」の方は、誘拐されたのだから、ハードボイルドらしい展開はあるのだが、人気の原因はそういうところにあるのではない。「初秋」も同様、ポールを何とか真人間に鍛え上げようとするスペンサーの奮闘ぶり、少しずつスペンサーに心を開いていくポールの姿に読者は胸を熱くする。というわけで実は2作品ともハードボイルドから逸脱した作品であるのだ。

 

因みに「ハードボイルド」を検索してみると、「文芸用語としては、暴力的・反道徳的な内容を、批判を加えず、客観的で簡潔な描写で記述する手法・文体をいう」「ミステリの分野のうち、従来あった思索型の探偵に対して、行動的でハードボイルドな性格の探偵を登場させ、そういった探偵役の行動を描くことを主眼とした作風を表す用語として定着した」とある。

 

確かにスペンサーシリーズにも「ハードボイルドな側面」はあるにはる。暴力シーンはふんだんにあるし、スペンサーたちを描くパーカーの文体は客観的で簡潔である。しかし、先の2作を見ても分かるように、およそ探偵らしくないことをスペンサーはしている。そこに読者も共感している。この従来の探偵小説と違うところが今でもスペンサーシリーズの愛読者が多い所以であろう。

 

 

僕にとっての「ハードボイルドな小説」に出てくる主人公は「自分で決めたルールを持っている」「そのルールから外れた行動は決してしない」というイメージである。スペンサーも第1作目の「ゴッドウルフの行方」では、僕の思い描く「ハードボイルド」な言動をしていた。

 

 

ところが2作目「誘拐」(1974)でスーザン・シルヴァマンとの仲が親密になるにつれ、様相は少しずつ変わっていく。先に書いたように「『自分で決めたルールを持っている』『そのルールから外れた行動は決してしない』」という「ルール」を厳格に守ってきたスペンサーが、そのルールとスーザンとの付き合いの両立に悩むようになったからだ。そして彼は「スーザン」という異物を自分の中のルールに加えることで自己を守ろうとする。ここらあたりが、このシリーズを好きになるか否かの分かれ目になるのかもしれない。

 

「誘拐」では前作のガールフレンドも出てくるし、スーザンとも事件を通して知り合ったちゃらついた関係だったが、作品を重ねるにつれ徐々にスーザンの存在が大きくなってくる。だんだんエラソーにスペンサーに物申すようになったスーザンにイラついた読者もいたはずだ。

 

 

そして「約束の地」をでは、生涯の友となるホークが初めて登場する。ホークもスペンサーと同じく「ルール」を持った人間だ。「約束の地」では、敵方にいたのに、土壇場になってスペンサーの方につく。それ以来、ホークが登場しない作品は数えるほど、というくらいスペンサーとの絆を深めていく。ホークはスペンサーよりルールを守ることに厳格だ。お互いを尊重し合う2人の姿は男としてはクラクラするくらいかっこいい。

 

こうしてスーザン、ホークという名脇役も生まれたスペンサーシリーズだが、12作目の「キャッツキルの鷲」(1985)でシリーズ前半の区切りをつけたという見方もできる(もしかしたらこれ以降の作品は読んでいない方も多いかもしれない)。この作品は1冊で完結させていた今までの作品とは違って前作「告別」(1984)の続編とも言えるものである。「告別」はそのタイトル通りの内容で、スーザンがスペンサーと別れを告げて西海岸に行く。東海岸(ボストン)に残ったスペンサーは、スーザン不在の苦しみに悩まされながらも何とか生きていく(最後、銃で撃たれる)。最後は東と西で電話をしてお互いの愛を確かめ合うというものだ。そのスーザンがスペンサーに(正確にはホークに)SOSを出したところから「キャッツキルの鷲」は始まる。本作でのスペンサーとホークは何人もの人を脅し、殺し、それはもう大変な大活劇を繰り広げる。

 

僕はこの作品からハードカバーで読むようになった。つまり、1985年頃から2011年までの約26年間、パーカーにお世話になったと言うわけだ。そして10年経った2021年から再びお世話になりそうな気配がしているというわけである。

 

 

「キャッツキルの鷲」の後「晩秋」(1991)で再びポール・ジャコミンが登場したり(その後もちょくちょく登場するようになる。つまりスペンサーは「ファミリー」を持つようになる)、様々な作品で新たな仲間(その後の作品でも名脇役となる)と出会ったりして、どんどん歳を重ねているはずのスペンサーだが、相変わらず強く、スーザンともとても仲良しだ。

 

スーザンとの仲が表面的に揺らいだとしても根柢のところでは決して揺らがない関係。そんなスーザンを「鬱陶しい」「意地悪」などと言い、スペンサーとスーザンを「いつまでいちゃいちゃしてるんだか」と揶揄する輩も多い。

 

 

その上1997年には「ジェシイ・ストーン」シリーズ、1999年には「サニー・ランドル」シリーズという新しい物語が立ちあげられる。スペンサーシリーズだけでは物足りないのか?と思ったが、どうもそうらしい。ジェシイ・ストーンはアル中、サニー・ランドルは夫との不仲に悩む、いわばスペンサーとは対極の存在を主人公に仕立て上げて物語を紡ぎ出したのである。すごいな、パーカー。一体何歳なんだ?(60を超えていたと思う)とも思ったが、スペンサーだけでは自分の作品のバランスに欠けると思ったのか、あるいは、違ったヒーロー像、あるいはヒロイン像を描きたくなったのか、よく分からないが、この3つの物語は複雑の絡み合うことになる。つまりスペンサーシリーズにジェシイが登場したり、ジェシイとサニーが恋仲になったりしちゃうのだ。

 

 

だが、不思議なことに「ジェシイ・ストーン」シリーズ第9作目の「暁に立つ」(2010)では、「うん?大団円か?まあこれでこのシリーズが終わってもいいかな」と読者に思わせる終わり方になっている。スペンサーシリーズ第40作目の「春嵐」(2010)ではそんな風でもないが、これも「ああ、これで終わりか」と思えばそう思えるかな?未完の原稿が発見されているようだから本人はまだまだやる気だったのだろうが。とにかくスペンサーシリーズは40作。これでいいと今の僕は思っている。

 

なんか書き足りない気分だけど(ボストンの様子とかレストランとか洋服のこととかドーナツのこととか料理のこととか気の利いた言葉とか、いっぱいあるよ)、早く新しい本を読みたいのでこれくらいにしておこう。第2弾もいつか書くことになるだろう。それにしてもこれほどストーリーを覚えていない(覚える必要がない)小説も珍しい。