プロレスと授業

僕は少年時代からプロレスに夢中だった。特にアントニオ猪木の雄姿には痺れた世代だ。その後も前田日明高田延彦船木誠勝等の新日本プロレス直系のレスラーや田村潔司などのUWF出身のレスラーを追いかけていた。

 

その後、グレイシー柔術が格闘技界を席巻した時も、そのグレイシーハンターと呼ばれた桜庭和志が出現した時もプロレスと同じ感覚でPRIDEやRINGSといった格闘技イベントを観ていた。

 

そのことと授業とどう関係するんだ?と言われそうだ。言われそうだし僕もこの後何を書くのかはっきりしない。はっきりしないが書き進めよう。

 

まず格闘技は置いておいて「プロレス」に焦点を絞ろう。プロレスでいの一番に言われること、それは「結末が決まっている」ことだ。その中でどう戦うか、そこがレスラーの腕の見せ所である。どう?少し見えてきた?

 

授業も基本的には1時間1時間の結末は決まっている。課題に対してのゴール(今日はこのことが分かればOK)が設定されている(例外的に設定されていない、オープンエンドの授業もあるが、それはあくまでも例外だ)。

 

その1時間の中でどういう風なルートを辿ってそのゴールに辿り着くか、これを僕達授業者はうんうん唸りながら考えるわけだ。

 

いやいや、教科書というものがあるだろう、それに従って授業をすればいいじゃないか、という意見もあろうかと思う。でも(話は横道にそれるかもしれないが)教科書というのは全国の児童の平均を考えて作られたものなのだ。学力低位の児童に教科書の流れ通りに授業をしても「??」となるに決まっているのだ。だから授業者はこの教材をどのようにして児童と出会わせるかに腐心する。それを教材研究というのだ。

 

プロレスもゴールが決まっている。それはさっき書いた。しかし、どうやって、もっと言うとどうお客さんに魅せるかということを考えて試合をするか考えているに決まっている。

 

僕達もそうだ。児童が「えっ?」と疑問を呈する問題をいきなり提示するかしないかを考えることや、「~してみたい」と児童が思う授業を創るべく無い知恵を絞っている。

 

ここまでよろしいでしょうか?プロレスと授業は似ている説その1。

 

次。「プロレスの技はかけられたら必ず受ける」。特に昔懐かしの全日本プロレスでは技を受けることは基本中の基本であった。相手の技を力を入れて受ける、そりゃあ痛いに決まっている。でもその姿をお客さんは求めているのだ。華麗な技を観る、そしてそれを受ける選手がいてこそ、素晴らしいプロレスの「作品」となるのだ。

 

僕達授業者はどうだろうか。児童の思考がどこから来ても大丈夫なほど、その教材を研究しているか。だとしたらいい授業ができる可能性がある、と言える。しかし逆に児童に「こう答えてほしい」と思いながら授業をしたり、自分の思惑通りの発言をした児童の言葉をすぐ採り上げて授業を進めたりするのは少し淋しい。

 

前者は児童の自由な思考のもと、「こう来たな。じゃあこれでいくぞ」みたいに授業を大きな河の流れとしてとらえた考え方だ。後者は自分の作ったレールの上を歩かせたがっている考え方だ。どちらの授業が優れているだろう。

 

児童が一生懸命に、また直感的に(←これが多い)発言することができるのは、それを受けてくれる先生がいるからだ。つまり、先生との信頼関係ができているのだ。

 

プロレスもおんなじである。お互いの信頼関係がなければ危険な技はかけられない。

 

プロレスでも授業でも「受ける」ことの大切さが伝わっただろうか。これがプロレスと授業は似ている説その2だ。

 

最後に。どちらにも言えることがある。それは「人間力」だ。最後はなんだかんだ言ったって本人(プロレスラー、授業者)に人間としての魅力がなければどんなにいい指導案を立ててもいい授業とはならない。いい試合にはならない。これがプロレスと授業は似ている説その3である。

 

人間力」という大雑把な言い方をしたが、教員は(特に担任は)日々判断を迫られている。児童がいろいろ質問してくるからだ。そこでいちいち丁寧に質問に答えるか、それとも、「あなたはどうしたいの?」と問い返すかで児童の育ち方はまるで違う。

 

児童と接する時間が長ければ長いほど、それは「経験値」となって「人間力」に繋がっていくのではないかというのが僕の考えだ。

 

 

なんだかんだ言って書けたよ。