hanami1294のブログ

現在休職中の小学校教員のつぶやきです(只今復職中)。

ソウルフラワー・ユニオン(魂花組合)というバンド

日本が世界に誇る(と僕が勝手に思っている)バンド、ソウルフラワー・ユニオンは、1993年に結成された。前身バンドはニューエスト・モデルメスカリン・ドライブである。この2つのバンドが合体してソウルフラワー・ユニオンになった。メスカリン・ドライブは女性ロックグループで内海洋子の迫力満点の英語ヴォーカルが売りだった。リーダーというか思想的な中心はギターの伊丹英子だった(多分その頃から中川敬と付き合っていた)。ニューエスト・モデルはモッズやパンクサウンドから始まり、ニューオーリンズ音楽やファンク・ミュージックなどさまざまな音楽を取り込み幅を広げていったバンドである(当時の文系男子はみんな聴いていたんじゃないかな。僕もそのクチである)。

 

親交のあった両バンド(後期ニューエスト・モデルのコンサートには内海や伊丹も参加していた)だからメスカリン・ドライブのニュー・アルバムをニューエスト・モデル中川敬がプロデュースすることになった。そこからだったらいっそのこと一緒にバンド作ろうか、となったらしい。

 

その予定していたニュー・アルバム「カムイ・イピリマ」でソウルフラワー・ユニオンはアルバム・デビュー(制作の経緯からヴォーカルは全て内海洋子だった。つまりメスカリン・ドライブのラストアルバムともいえる)。そして翌年セカンド「ワダツミ・ヤマツミ」を発表する。

 

この頃のソウルフラワーのテーマは、「ロックに民謡のリズムをどう取り入れるか」であった(岡林信康の「エンヤトット」に近いかもしれない)。それまで洋楽テイストの強い、いわゆるかっこいいサウンドを鳴らしていた両バンドのファンから、また音楽評論家からそうとう叩かれたと記憶している。このアルバムでは喜納昌吉の「アイヌ・プリ」をカヴァーしている(秀逸な作品である)がこんなナンバーも受け入れてもらえなかったのかもしれない。とにもかくにも彼らは彼らの信じる道を突き進んでいった。この姿勢は今も揺るがない。

 

そうして周りから決して手放しで迎えられていたわけでないソウルフラワー・ユニオンに大きな転機が訪れた。1995年2月の阪神淡路大震災である。彼らは震災被災者を励ますために「出前ライブ」を敢行する。いかなる場所でもライブできるということを主眼に置いたため楽器は全部アコースティックなものを使用することにした。こうして生まれたのが「ソウルフラワー・モノノケ・サミット」である。

 

沖縄の三線、チンドン太鼓、チャンゴ(朝鮮太鼓)、アコーディオンクラリネット、メガホンや拡声器を使い、避難所や仮設住宅でライブを行った。

 

被災者の心に、特に年配の方に届く歌を、ということで戦前戦後の流行り歌や壮士演歌、ヤマト民謡・沖縄民謡・朝鮮民謡・アイヌ民謡などをレパートリーに、チンドンアレンジで演奏したのだった。

 

(覚えている限り書くと、「鎌田行進曲」や「ソーラン節」「案里屋ユンタ」「ピリカ」などの各地の民謡、添田唖然坊が歌った「復興節」などがレパートリーだったように思う)

 

中川が震災1か月後に書き下ろした「満月の夕」は現在でも歌い継がれている名曲だ。

 

ソウルフラワー・モノノケ・サミットの活動はその後もあちこちで続く。

 

                              (終わらない)