僕が勤務している地域の教育長が来年度から3年間の方針を打ち出した。それについて一言も二言も言いたいのが本記事の趣旨である。一言も二言も言って大丈夫だろうか。
「〇〇市の教育が大きく変わります」「子どもの『今』も『未来』も幸せに well-beingを実現する学びの改革」と大きく銘打っているリーフレットが全教職員に配布されている。「自分で考え 動く 生み出す そして社会を変える」と表紙に書かれ、それを実現させるために4本の柱を打ち立てている。内容は以下の通りである。
01:学びを変える
02:誰一人とり残さない
03:未来は自分で創る
04:地域と一緒に
一番スペースを割いているのは「01:学びを変える」である。ちょっと長いが引用させてもらおう。
☆教師による一方向の一斉授業スタイルは、異なる一人ひとりに合う学びを届けることに限界があります。一人一台のパソコンをフル活用して、個々のスピードに合わせて、自分のペースで自分から学ぶ。そして沢山の人と対話して、助け合って共に学び合う。教室の空間デザインも工夫し、好奇心と夢中であふれる、もっと自由でクリエイティブな教室へ。「そろえる」教育から一人ひとりを「伸ばす」教育へと変えていきます。
この文章の下にはイラストがついている。デザイナーに描いてもらったのだそうだ。そこにはこんなことが書かれている。
今までは・・・ 「みんな一緒に 同じことを 同じ方法で」
みんなが黒板に向かっているイラストが描かれ、吹き出しまである。吹き出しの中には「じっとしているのが苦手だな・・・」「簡単すぎて退屈で苦痛・・・」「全くわからないから寝よう」「授業についていけない」「文字が読みづらいな・・・」と書かれている。
これからは・・・ 「自分のペースで自分で学ぶ」「学び合って、助け合って、共に学ぶ」
3枚のイラストがある。吹き出しはない。1枚目の教室はオープンスペースって言えばいいのかな?教室の戸はガラス張りで大きく開けられていて、教室の中と廊下にいる児童。廊下では地面に紙を広げ、図形を並べている。教室の中では少人数のグループになってそれぞれ何かしている、そんなイラストである。
2枚目のイラストはだだっ広い廊下?というか空間が広がっていて、少人数のグループに分かれて、グラフを使いながら何か説明している。椅子に座ってるグループもあれば、地面でやっているグループもある。
3枚目のイラストは、大きな大きなテレビがあって、そこに他校の児童が等身大で全身映っている。その子達と交流しているイラストである。
何で3枚のイラストに吹き出しを付けなかったんだろう。「これなら分かる!」「これならできそうだ!」とか「僕の話を聞いてもらえてる!」とかね。
えー、ではひとこと言わせてもらいます。まず☆マークの付いた文からいこう。くどいけど、コピーしときますね。文番号もつけちゃおう。
☆①教師による一方向の一斉授業スタイルは、異なる一人ひとりに合う学びを届けることに限界があります。②一人一台のパソコンをフル活用して、個々のスピードに合わせて、自分のペースで自分から学ぶ。③そして沢山の人と対話して、助け合って共に学び合う。④教室の空間デザインも工夫し、好奇心と夢中であふれる、もっと自由でクリエイティブな教室へ。⑤「そろえる」教育から一人ひとりを「伸ばす」教育へと変えていきます。
5文で構成されているが、ここには実に多くのことが詰め込められている。特に2,3,4文目は「うん?文科省が言ってるの?」と思ったくらいだ。
2文目の「一人一台のパソコンをフル活用して、個々のスピードに合わせて、自分のペースで自分から学ぶ。」について。
パソコンをフル活用するためには、もちろんパソコンを使えなくてはならない。使い方を学ぶ時には一斉授業をしないのだろうか?じっとして先生の言うことを聞き取る必要があるのではないか?それに一人の先生では無理だぞ。フル活用できるかできないかという時点で個々のスピードに差が生じると思うが、そこはどうするのだろう?「自分から学ぶ」って書いてあるけれど、パソコンが使えれば、そして自分のスピードでよければ、子ども達は「自分から学ぶ」のだろうか?もっと根源的な動機がなければ人は「自分から学ぶ」という行為はしないのではないだろうか?一人ではできないと書いたが、もっと人がいるならお金もいるぞ。それに人やお金はどこから出すのだろうか?
3文目の「そして沢山の人と対話して、助け合って共に学び合う。」について。
これは性善説というかファンタジーの話に聞こえる。仮に「自分から学ぶ」ようになったとしよう。そしたらもう学びは終わったんだから、誰かと対話する必要を児童は感じるだろうか?それに授業でも何でもそもそも「対話」というのは、ある程度学力レベルが同じ人同士でしないと、ただの雑談になる。しかも学力低位の人同士が対話してもお互い困るだけだぞ。「沢山の人」ってところで間違ってる気がするけどなあ。誰とでもいいなら、そんな対話で学習が深まるはずはない。それで「助け合って共に学び合う」?対話が成立しないところで助け合いの気持ちは生まれるだろうか?なんで助け合わなければいけないのか子ども達に分かるのだろうか。こんな状態で「学び合う」ってどういうことを指して言うのだろうか?「学び合う」という言葉の定義をハッキリさせてくれないと困る。このファンタジーを成立させようとするならば、一人の先生じゃ無理だ。ここにも人が必要だ。
4文目の「教室の空間デザインも工夫し、好奇心と夢中であふれる、もっと自由でクリエイティブな教室へ。」について。
「教室の空間デザインも工夫し」って、どう変えるのだろうか?イラストのように変えるとすると、莫大なお金がかかるけど、その予算は?分かった。お金も出て、各小中学校の教室の空間デザインが変わったとしよう。そうしたら好奇心が生まれるのだろうか、夢中になれるのだろうか。自由になれるのだろうか。この場合の「自由」ってどういう意味なのだろうか。同じく「クリエイティブ」ってどういう意味なのだろうか。
☆印の文を読むと、言葉の定義がはっきりしていない(何を前提にしているのかが分からない)のと、実現するにはお金と人が沢山必要だ、ということが分かった。
ハッキリ書くと、工藤勇一やらイエナプランやら何やら(まあ、僕も不勉強なのでよく分からないが)の耳障りのいい言葉を取り出して書いている文章に見えるのだ。
そしてもうひとつ、僕が拘りたいのは、ここには学級経営という考え方がない、ということだ。一斉授業では、学級経営という基盤をしっかり持ってこそ学習が成り立つという面がある。いくら教科の専門性が高い教師でも、「学級」という集団を「経営」するという考えがないと授業は成り立たない、これが一斉授業の特徴であると僕は考えている。
確かに「対話」「助け合い」「学び合い」等、学級経営に関係しているかな?という言葉は散りばめられて入るが、実体は感じられないのだ。それとも一斉授業はなしにするから、学習集団というものもないということなのだろうか?
☆印の5文のうちのたった3文しか触れていないのに3,000字も書いちゃった。まだまだ言いたいことがあるんだけどなあ。
もちろん僕も今まで通りの授業でOK、と思っているわけじゃあない。でもこれはちょっと現場の実態を見ていない教育方針だと思わざるを得ない。まあやれと言われたことはやるのが真面目な公務員である先生の仕事なんだけどさ。現場を見ていない人(見てたらごめんなさい。いや、当然見てるか)の言うことは聞きたくはないな、というのが本音である。
2023年度は試験的運用、2024年度から本格実施だそうだ。僕は2024年度が教員としての最後の年だと思っているからとても困る。悶々としながら1年を過ごすんじゃないかな。だからタイトルは「あわよくば逃げ切りたかった」にした。これも本音。
ああ、そうそう。なんで僕が昨日あんなに克明に(とても恥ずかしかったが一応頑張って再現してみた。記事をアップしてからも削除しようかと悩んだ)自分の授業を再現したかというと、この新教育方針があったからだ。新教育方針に照らし合わせると、僕は「いらない人」である。だが、昨日のような授業(内容の是非は置いておいて、学級経営を基盤にした授業という意味)が必要だと思われるなら、僕は「まだ使い道がある人」になる(と思いたい)。
そこらへん、はっきりさせてくれないかな?
このリーフレットの最後には「なぜ今、教育を変えるのか?」と題して〇〇市としての考えを述べている。そして最後に「そんな教育を、〇〇市は本気で目指していきます」と書いている。
だから僕も本気で考えてみたというわけである。
よしっ。仕事モードになったぞ。明日はトホホ日記を書こう。
今朝、積雪の具合を点検したら、10~15㎝は積もっていた。今(正午)、まさに雪が降ってきたところだが、午前中はお日様が出ていた。他の地域では、これ以上の積雪や断水で苦しんでいるところもある。僕も決して(心身両面において)余裕があるわけではないが、お互い何とかしのいでいけたら、という言葉しか思いつかない。
そして、な、な、なんと!!!ス、ス、ストリート・スライダーズが再集結だとおぉぉ!5月3日武道館だ!トリビュートアルバムも出るぞ。このニュースだけで今日一日生きていけるぜ!
ハリー、大丈夫かなあ。とにかく4人が集まるなんて・・・絶句である。生きているとホントに色々な事が起こる。
追加でどうしても書かなければいけないことが起きた。トム・ヴァ―ラインが亡くなった。