教員が発揮すべき専門性って何だ?

今日はタイトル通り硬い話題でいってみよう。もうお昼も過ぎたことだし、明日から勤務だしね。

 

最近ヤフーニュースで「教師の『専門性』を発揮できる環境をどうつくるか」というタイトルの記事があった。僕はこのタイトルに強い違和感を抱いた。「教師の『専門性』を発揮できる」?そもそも専門性って何だろう。そしていかにも教師がその専門性とやらを持っているかのような書き方だが、本当に今の教師は専門性を持っているのだろうか、というのが違和感の中味だ。

 

そこで今日は教師が持っているかもしれない専門性について書いてみたくなったわけだ。僕に書けるだろうか。とにかく1時間頑張ってみるぞ。

 

僕が考える「専門性」は大きく分けて2種類ある。1つは児童との対応能力に関する専門性、2つ目は教科の専門性である。僕はこの2つを兼ね備えている人のことを「教師」というのだと思っている。そして「教師」と言える人は今も昔もあんまりいないように僕には思う。だからタイトルは「教員」と書いた。残念だけど僕は「教員」である。

 

1つ目からいこう。「児童との対応能力」か。乱暴な言い方だなあ。もう少し分けて書くと、「一人の児童に対する対応力」と「多くの児童(集団、あるいはクラスと言ってもいい)に対する対応力」のことである。どちらも常にその力を試される場に立たされているのが僕達の仕事である。そこには確かに専門性というものが存在すると思う。

 

うーん・・・、思いつくままに書くと「子どもを見取る力」「話を聞く能力」「共感できる力」「反論できる力」「意味(あるいはねらい)を話せる力」「自分の発する言葉の説得力(個人に対しても集団に対しても)」なんかが必要ではないかと思っている。今書いた力を一言でこれまた乱暴に表すとしたら「人間力」と言えるかもしれない。

 

人間力」と一言で片づけるならば、もう少し乱暴に書いてみよう(「乱暴」は3回目だ。ひどいな)。僕が見てきたいろいろ先生について言えるのが、「できる人は若い時からできる」ということだ。これは悲しいが僕にとっては事実である。残念ながら僕はそんな人間ではなかった。だから「若い時からできる」人を見るにつけ、羨望の念を禁じえなかった。

 

でも、そんな僕も自分なりに精進し、今がある。20代の時とは少しは変わったということは確実に言える(と思いたい)。ということは意識すれば、その分体験したことが血となり肉となり自身の人間力向上に繋がるということである。人間力が向上するということは「児童との対応能力」に関する専門性が高まるということだ。ただし、いくら歳を重ねても意識しなければ、人間力なんてものは向上しないに決まっている。残酷な言い方だが「使えるやつは若くても使えるし、使えない奴は歳をとっていても使えない」のだ。またまた非常に残念なことだが、今の僕は「使えない」人間まっしぐらだ。つまり教員という仕事は(どの仕事にも言えるか)「なまもの」である、ということだ。今、この時使えなかったら使えない人間なのだ。

 

現在、学校で何故いろいろなトラブル(児童に対しても保護者に対しても)が起こるかというと、このような専門性が足りないからだと僕は認識している。

 

 

ここまで書くともうひとつ触れなければいけないことがある。そもそもなんでそんな専門性を持たねばならないのか問題である。つまり「教育」ってどういうこと?という話である。これについて話すのは怖い。同じ職場にいながら目指しているものが違うからだ。だから僕のような力量のない教員は無意識に「正解」を探す。繰り返すが子ども達に何をどのように教え、育てるのかという教育観が先生によって違うのが現状なのだ。そしてそれぞれの教育観をすり合わせ、同じ目標に向かって進む学校に勤務したことが僕にはない(なりかけたことはある)。

 

明治時代だったら分かるよ。工場で働くことができる人材、兵隊になれる人材を育てるのが教育の役割だったんだから、「人の言うことをよく聞き、その通りに動ける人間を育てる」ことが当時の教育観だった。でも今は違う。だから教員によって教育観が違うのは当然である。だからこそ、自分はこういうつもりで子ども達に接している、という教育観を持っていないと、その人の授業なりクラスは破綻する。

 

じゃあお前はどうなんだ?と言われそうだ。僕もそれは分かってて自分の考えを書くのを先延ばしにしてきた。そろそろ書かなきゃね。

 

僕は、自分にとってハッピーな人生を送るにはどうすればいいのか、を考えられる人に育ってもらいたいと思いながら子どもたちと接してる。うーん、これだけじゃあ伝わらないな。僕は前に「『楽しい』と『楽』は違う。でも最後には繋がる」という趣旨の記事を書いたことがあるがそれを読んでいただくと少しは伝わるかもしれない。一部引用してみよう。長くなるけどゴメンね。

 

~・・・C「じゃあもういきなり核心をついちゃうから。トモフの歌を聴くと、『楽しさ』と『楽(らく)』について考えちゃうの。トモフ自身も考えているんじゃないかと思うけど。『楽しさ』と『楽(らく)』は同じ漢字だけど、ちょっと違うと思うの。」
H「うーん、いきなり過ぎてよく分からない。例えば?」
C「そうだなぁ。私が、高校生で生徒会長だとするでしょ。文化祭が近づいている。企画立案を生徒会でしなければいけない。そして決まったことを全校生徒に提案しなければいけない。その提案が通ったとして今度は準備期間が始まる。その間いろいろな難問を私が責任を持って捌いていかなければいけない。そして当日。無事行われることを願いつつあちこちをチェックする。終わったら後片付けとみんなへのねぎらい。これらのことは、ひとつひとつとてもエネルギーのいることだわ。面倒くさくて疲れることと言ってもいい。でもやり遂げたとき、いや、やっている時に感じることもあるわ。そんな時に沸き起こる感情が『楽しさ』よ。そして『楽しさ』を感じるためにはエネルギーがいる。ここまではいい?」
H「なるほど。分かるような気もする。『楽(らく)』は?」
C「『楽しさ』を通過しないと『楽(らく)』は生まれないの。『楽(らく)』な状態っていうことは、自分自身の居場所があるって感じるってことでしょ?さっきの話で言うと生徒会長の私は、文化祭の成功によって自分の居場所を作ることができたの。トモフは会社や世間と面倒くさくて邪魔くさい闘いを挑んでその過程で『楽しさ』を感じた。その結果『楽(らく)』になったのよ。彼だったら『ラク』って表記するかもね。もちろん会社との闘いなんかはヘビーなものだったかもしれないけど。彼の活動はその繰り返しだわ。」~

 

 

 

どうだろう?少しは伝わっただろうか。ここに書いた「(メンドクサイ)楽しさ」を児童が体験すること、そしてその先にある「(自分の居場所があるという意味での)ラク」を児童が体感することを求めて僕は授業をするなり学級経営をしてきた。だからさっきはハッピーな人生云々って書いたけど、僕にとって「教育」とは、「楽しさ」と「ラク」をいかなる場合でも追求することである。そこにこそ人間の成長や幸せがあると思っている。でもこんな風に考える人ってあんまりいないだろうなあ、とも思っている。

 

 

次は「教科に対する専門性」である。ほんとはこれについて今日は一番書きたかったんだが、だめだ、力が尽きた。また日を改めて書くことにしよう。パスタを作る時間になった。今日はキレが悪かったなあ。今度また挑戦してみるよ。じゃあね!