チャック・ベリー、ピストルズ、ルースターズ等ころころその日に聴く音楽が変わるのは僕のせいではない。きっと世間がそうさせるのだ。
というわけで昨日今日はずっと忌野清志郎を聴いている。過激な頃の清志郎あるいはRCサクセション。アルバムでいうとRCは「カヴァーズ」「コブラの悩み」、ザ・タイマーズはスペシャル・エディション版デビューアルバムなんかを聴いている。
もっと具体的に書くと「カヴァーズ」の「明日なき世界」「風に吹かれて」、「コブラの悩み」の「アイ・シャル・ビー・リリースト」「軽薄なジャーナリスト」「あきれて物も言えない」である。ザ・タイマーズだと「3部作」「ギーンギーン」「総理大臣」等である。
「明日なき世界」を聴くと、香港やミャンマー等の世界情勢について思いを巡らせてしまう。他の曲を聴くとどうしても今の日本のことに思いを巡らせてしまう。オリンピック・パラリンピックとかコロナ禍とか、それを報道するメディアとかね。
40年近く前の音源だよ。それを聴いて心を動かされているんだ。とても素敵なことじゃないか。でも、つい思ってしまう。今の人の歌も聴きたいな、と。
前にも書いたが、今清志郎が生きていたらどんな歌を歌っていたんだろうと妄想することがある。考えるまでもないか。きっと「機動的に」いろいろな視点から歌っていたんだろうな。いろいろな場所でライブもしていたかもしれない。そしてこれもだいぶ前に書いたが彼の歌はとても「マンガ的」に僕には聴こえる。決して貶めて言っているわけではない。
清志郎には「マンガ的」なところと「誰もやらない、言わないことをやっちゃう、言っちゃう恐ろしさ」の両面を感じる。もっと他にもたくさん魅力があるんだけど、今のこの状況では先に書いた2点に目が向いてしまう。
となると、「マンガ的」とはどういうこと?と言う声が聞こえてくる。例えば清志郎は「カヴァーズ」の歌詞を「替え歌」だと言っている。あまりにも有名な「ラブ・ミー・テンダー」を「何言ってんだー」と訳した(言い換えた)ところ。それに「デイドリーム・ビリーバー」で「アンド」を「そんで」と訳した(言い換えた)ところ。これは駄洒落なんかじゃなく(本人は半分そう思っていたかもしれないが)、「センスある替え歌」なのだ。本気でやっているのだ。
今までありそうでなかったこの「替え歌」は僕の言葉で表すとしたら、とても「マンガ的」に聴こえる。上手く言葉で伝えられないのがもどかしい。でも兎に角こんなに「マンガ的」なロッカーって世界を見渡してもいないんじゃないかな。
大体ザ・タイマーズを結成することにしても同様である。あんなこと普通はしないよな。RCのキヨシローだよ。僕の狭い嗜好で例えるのも申し訳ないが、RCが「プロレス内プロレス」だとしたら、ザ・タイマーズは「プロレスを超えたプロレス」だ。アントニオ猪木で言えば、RCが「猪木―シン」「猪木―ハンセン」(普段のプロレスの範疇で名勝負を繰り広げる)だとすれば、ザ・タイマーズは「猪木―アリ」(プロレスの枠を超えたやるかやられるかの真剣勝負)だ。じゃないと、夜のヒットスタジオの「FM東京事件」は起こさないだろう。確信犯なのだ。と、ザ・タイマーズの「恐ろしさ」にまで話がいってしまった。
どこか憎めない茶目っ気のような雰囲気も醸し出していたのでただ単に面白がっていた人もいるかもしれないが、忌野清志郎は、ちゃんと「恐ろしさ」も持ち合わせている。そういう両面を持っている清志郎に僕は今も痺れっぱなしだ。