hanami1294のブログ

現在休職中の小学校教員のつぶやきです(只今復職中)。

アントニオ猪木に纏わる思い出(←薄味)

テレビの地上波やYouTubeで、猪木の在りし日の姿がジャンジャン映し出されている。古舘伊知郎が猪木の死を悼んでコメントするのも観た。昨日はちょろっとだけこのことを書いて、今日はがっつり書こうと思っているのに、なかなか言葉が浮かんでこないし、タイトルも思いつかない始末だ。

 

僕がアントニオ猪木の存在を知ったのはもちろんテレビでのプロレス中継でだった。東京とかだと金曜夜8時放送だったが、僕の住んでいる地域では、日曜の夕方に放送されていた。初めて観た時のことは覚えていない。しかし、父親が好きだったんだろうな。それに感化されたのか僕も毎週テレビで観るようになった。

 

タイガーマスクが登場するまで、何度か猪木率いる新日本プロレスはブレイクしていた。つまり大木金太郎ストロング小林らとの日本人決戦、タイガー・ジェット・シンの登場、藤波辰巳の凱旋帰国後の活躍、スタン・ハンセンの台頭などでライバル団体である全日本プロレスの勢いに拮抗していたというわけだ。しかもモハメド・アリとの異種格闘技戦なんて大それたこともやっていた(興行的には大失敗)。僕はこの時期の全てを見ていたわけではない。ないが、気にしていたことは確かだと思う。年代としては小学校中学年から中学校3年くらいまでだ。それが僕にとっての第1期アントニオ猪木ファン時代だった。この時期に1回生(なま)で猪木の試合を見たことがある。タッグマッチだったが、リングの中にいてもリングサイドにいても、ただひたすら猪木を見ていたことを覚えている。小学生のガキんちょをも魅了させるオーラを猪木は放っていた。

 

第2期猪木ブームは高校時代にやって来た。タイガーマスクが出てしばらく経ってからの頃だ。友達が猪木のことを訳知り顔に話している。何々猪木?そんなら俺にも語らせろ、と思い話の輪の中に入ろうとしてもついていけない。タイガーマスク?誰?それって感じだった。そこで急いでテレビでチェックしてみると(今度は平日の深夜に放送されていた)、タイガーマスクはかっこいいし、何だかラッシャー木村等と抗争を繰り広げているやらで、びっくりした。友達は音楽の時間に「週刊ファイト」というプロレス新聞をみんなで回し読みしていた。僕も混ぜてもらった。おっとその前に忘れていた、松村雄策だ。彼の書いた記事に村松友視の名著「私、プロレスの味方です」という本が紹介されていたのだ。僕は早速本を購入して読み、大いに納得もした。だからちょっとプロレスについて知ったような気になっていたんだった。

 

友達から回してもらう「週刊ファイト」を読むうちに、どんどん僕は再び猪木ののめり込むようになった。大学に入学してからは、「週刊ファイト」が駅で販売していたこともあり、自分で買ってじっくりと読み込むようになっていた。この新聞はプロレス新聞のくせに新日本プロレスを贔屓して、全日本プロレスを軽視していた。編集長の井上義啓が大の猪木信者だったからだ。彼の書く猪木の試合のレビューは乱暴に言ってしまえば文学的だった。それを僕らは「ふーむ・・・」と知ったかぶりをしながら読んでいたわけである。

 

大学時代には友達と新日本の試合を見に行った。やはり猪木はタッグマッチに出場していたが、少年時代と変わらず、いやそれ以上に猪木の一挙手一投足に目を凝らしていたものだ。その時に見た猪木もかっこよかった。

 

それからはブランクなしでずっと新日本プロレスを見ていた。それは猪木が引退してからもだ。僕がもう新日本プロレスを見るのはやめようと思ったのは、「プライド」という総合格闘技団体ができてからだ。「プライド」には猪木も一枚嚙んでいた。その時生まれたのが「元気ですかぁ~」というかけ声だった。

 

思えば猪木は自分がピカンと閃いたらとにかくやる人だった。それが観客の失笑を買っても臆せずやり続ける男だった。その結果、「1,2,3.ダァ~!」や「元気ですかぁ~」が観客に定着したのだ。そこら辺の堂々っぷりはさすがだなと思わざるを得ない。あ、でも現役時代末期はすべりっぱなしだったな。よく観客が試合の結末に怒って暴動が起きていたものだ。

 

「1,2,3.ダァ~!」の話に戻させてもらおう。これは、猪木が昔から試合後に観客に向けて「ダァ~!」と叫んで右手を高々と突き出す儀式のようなものだった。それがどうして「1,2,3.ダァ~!」と観客をも巻き込んだ名かけ声になったのか?という話である。

 

時は1990年2月10日の東京ドームでの興行でのことだった。メインイベントは「蝶野・橋本―坂口・猪木」戦だった。この試合は新日本プロレスを支え続けてきた坂口、猪木とその弟子の蝶野、橋本が新旧の世代交代を賭けた戦いだった。試合直前のインタビューで、後世に語り継がれる名場面があったが、ここは端折っておこう。試合は弟子にこてんぱんにやられた2人だったが、最後に猪木の延髄切りが炸裂し、レフェリーが高速で3カウントをとるという荒業で締めた試合だった。この試合後、猪木は(鼻血を出し目の下を腫らせ、足を引きづりながら)マイクを持ち、観客に呼び掛けたのだった。「いつも私が試合の後にやっている『ダァ~!』、これを皆さんと最後に一緒にやりたいと思います。私が『1,2,3』と言うので『ダァ~!』とご唱和ください。いきますよー」(←大体こんな感じで言ったと思う)と言ってやったのが「1,2,3.ダァ~!」の始まりだった。この猪木の説明のところで客は大笑いしていた(僕も笑ったがこれを説明するのは難しい)が次の瞬間、猪木に乗せられ、全員全力で「ダァ~!」と言ったのだった。ここら辺のセンスと言えばいいのか常人には分からない計算してるのかしてないのかよく分からないところは忌野清志郎にも通じるものがあるな、と当時思った次第である。

 

「追悼、アントニオ猪木」と題するにはあまりにも薄味な内容だが、取り急いで書いてみた。思い出に残る試合なんかもこれからゆっくりと書いてみたいものである。テレビ局は追悼番組をやるのかな。

 

 

以上、極個人的なアントニオ猪木に関する文章でした。