「本質に迫る」ってどういうことだろう

どうしてこんなことを考えたくなったかというと、やはり先日の算数の授業がまだ心の中に残っているからだ。

 

goo国語辞書によると「本質」とは、物事の根本的な性質・様子。そのものの、本来の姿、と書いてある。

 

例えば「算数科の本質に迫る」と書くと何やらドキドキとしてくる。何も分かっちゃいないからだ。でも分からないなりに考えてみると、指導案の教材観のところに書く「算数的価値」について考えることが「算数科の本質に迫る」ことになるのかもしれない。

 

ところが近頃の指導案にはそのことに触れていることが少ないのではないかというのが僕の実感だ。

 

「分数」を学ぶにあたっての算数的価値は?「わり算の筆算」を学ぶにあたっての算数的価値は?こういうことを考えていかないと、授業は深まらない薄っぺらなものになってしまうのではないだろうか。子どもも先生も分かったつもりになっている、という様子が目に浮かぶ。

 

もしかしたら「何だかなー。こんな授業してていいのかな」と思いながら授業をしている先生がいるのかもしれない。だとしたら嬉しい。そんな先生と話し合いたい。

 

「分数」の算数的価値は、整数だけでは表すことのできない(例えば)長さをどう端(はした)を使って表す(互除法によって)ことができるということだ。と思う。

 

「わり算の筆算」の算数的価値は、今まで九九を適用して解決していたわり算の世界を広げることである。そして他の加減計算と乗法の計算のように大きな数字でも筆算で解決できるということだ。と思う。

 

こういうことを話すということはつまり、「分数とは何ぞや」「わり算ってどんな計算?」という根本的なことを話すことになる。例えばわり算の導入で「60枚の色紙があります。この色紙を3人に同じ数ずつ分けます。1人分は何枚になりますか」という問題があるが、ほとんどの児童はわり算だと答える。そしてそれは「分けます」と書いてあるからだと言う。

 

でもそこで「わり算とは何ぞや」と考えている先生は、異議を申すだろう。一番大切な言葉は「分ける」ではなく、「1人分」だということを児童に何らかの形で伝えるだろう。

 

ところが今の学校現場ではこういう話は一切といっていいほど出てこない。「『分ける』って書いてあるね。じゃあわり算だね」と言う先生は意外と多い。先生が考えないのだから児童も考えない子になるのは当たり前だ。

 

では、「これじゃあいかん。もっと本質的な話をしないと」という風に学校が変わっていくか?というとこれも現実的ではない。もうそんなことは文科省は求めていないのだ。きっと。

 

でも、「256÷4の2の上に商がたたない時は25÷4にして計算する」ということを手順のみ覚えて使えるようになって何が楽しいのだろう?何故そうなるか分からないまま使うって何だか危なくないか?これからのことを考えると。

 

「2の上に『0』を書きたくなる児童もいるんじゃないか。そして4×0=0として、2の下に0を書きたくなる」。そんな意見は黙殺される。だが、児童のそんな反応こそ、「本質に迫る問い」なのかもしれない。それにどう乗っかっていけるか、そこが教師の力量というものだろう。