冬眠日記その20 ~懐かしの自転車旅行の巻~

今年も讃岐には行けない(2年連続行かないなんてあり得ない・・・)。だから代わりに日帰りでどこかに行きたいものだ、と妻に言っても妻は何かと忙しいと言う。せめて旨い寿司でも食べに行きたいところだが、それも叶いそうにない。ああ、つまらない。とはいえ、もうすぐ冬休みだ。授業は火曜日までだ。僕は水曜日以降28日までは、午前だけ勤務して帰ることにしようと思っている。適度な緊張感を保ちながら年末を過ごすことができそうだ。あんまり「休みだ~!」ってならない方がいいかもしれない。

 

 

というわけで今日は生まれて初めてのサイクリングについて軽く書こうかな。前にも書いた通り僕の家は自転車屋だった。中学に入ると父は僕にドロップハンドルのサイクリング車を与えた。友達に宣伝して来いというわけである。いやいや学校でドロップハンドルは禁止されているよと言うと「そうか。でもお前は乗れるようにしておけよ」と言われたので、僕はドロップハンドルのサイクリング車をずっと使い続けていた。その頃から我が子と一緒にサイクリングに行きたいと思っていたのかもしれない。

 

そして中学3年の夏休み前から父はちょろちょろと僕にサイクリングについて話し始めた。夏休みに入ってからは「どうだ?行くか?サイクリング」と結構な口調で言い始めたので、特に興味のない僕だったが仕様がないので「行く」と答えた。それから用意を始めた僕たちを見ていた母親は終始反対気味だった。

 

サイクリング当日。父と一緒に2台の自転車を軽トラに積み込み、適当なところまで運んだ。目指すは能登半島1周だ。車を停めるのに都合のいい場所を見つけると僕達は自転車を下ろし、早速サイクリングロードを走り始めた。ペースは父親が配分していたので旅は順調だった。坂道を上がる時、僕は張り切って自転車を漕いだ。その後のダウンヒルは生まれて初めて「風を切るってこういうことかあ~」という気持ち良さを感じることができた。そうこうするうちに昼食の時間となり、食べ終えるとすぐにその日の後半戦が始まった。

 

ここまでは順調だったが、もうひとつ山を越せば今日の目的地(皆月でテント拍の予定だった。花村萬月の作品に「皆月」という小説があるのを知った時は驚いたよ)、というところで僕はミスってしまった。ダウンヒルで調子に乗って下っていたら、ハンドルをコントロールできなくなり、猛スピードで側溝に突っ込んでしまったのだ。溝の中で意識がしばらく飛んでいたと思う。しばらく何が起こったのかよく分からなかったが、自分が溝にはまっているのに気がついて僕は体を起こそうとした。

 

その途端左の下腹に激痛が走った。何だか大けがをしているようだった(ちょっと大げさ。縫うほどの傷ではなかった)。這う這うの体で溝から体を出し、横たわっていた。どれくらい横たわっていたのだろう、やがて父親がやって来た。僕が怪我をしていることが分かると最初は「何やってんだ」というようなことを言われたが、傷が結構深いことを知ると少し慌てたようだった。「もうこの山を下りたらすぐだから。自転車に乗れるか」と聞かれたので乗ろうとすると、両足が痙攣した。僕は知らず知らずのうちに体力を使い果たしていた。

 

その様子を見た父親は僕に座るよう促し、車が通りかかるのを待った。そして車が来ると、取り敢えず(自転車はその場に置いておいて)僕と2人で病院まで行って応急手当をしてもらった。その日は予定を変更して民宿に泊まり、次の日に僕だけ列車で戻ってきた。駅には親戚一同が僕を待ち構えていた。そしてその足で病院に連れて行かれた。父はいろいろなことを片付けてから戻ってきたが、戻った途端親戚や母親から猛攻撃を喰らっていた。僕は自分が悪かったんだからとみんなに言ったが誰も僕の言うことは聞いてくれなかった。少し父に申し訳ないと思った。傷は今も残っている。

 

これが僕の初めてのサイクリングの顛末だ。次の年も父親とサイクリングに行った(高当然母親から反対された)。その時は面白かった。コースに白根山という山を自転車で登るというルートも含まれていたからだ(帰ってから調べると白根山は結構高い山だった)。本格的に山を登るとなると、当然自転車から下りなければならない。登山道はこれも当然登山者でいっぱいだった。みんな物珍しそうな顔をして僕等親子を眺めている。なかには「頑張って」と声をかけてくれる人もいた。そして頂上に着いた時には周りの人から拍手された。照れ臭かったが嬉しかった。しかし、ダウンヒル恐怖症になっていた僕は降りる時、ソロソロと降りるしかなかった。そんなこんなで2回目のサイクリングは無事終えることができた。この旅で酒を飲んでリラックスして僕に話す父親の姿を初めて見たように思う。

 

 

高校2年の時には、友だちと京都に行こうという話になって、「俺は自転車で行く」と宣言してしまった。父親に言うと、「ここから1日で京都に行くのは無理だ」と言われた。しかし、言うことを聞かない僕を見て、出発の日の朝、「来い」と呼んで僕の自転車を黙って軽トラに積み込み、敦賀まで送ってくれた。そのおかげで何とかその日の夕方に京都に着き、友だちと合流することが出来た。

 

次の日は友だちと観光をしてから帰路に着いた。しかしいかんせん遠いうえに出発が遅すぎた。結局僕は父親に電話し、どこかの駅に泊まるつもりだと言うと、「しばらく走ってからもう一度電話をかけろ」と言われた。再び電話をかけると父はその間に敦賀自転車屋に連絡を取ってくれていて、取り敢えずそこに行けと僕に言った。何とか自転車屋さんを見つけると、旅館に案内してくれた。そして僕が泊まったこともないような広い部屋に案内され、その部屋で今まで食べたことのないような豪華な食事を僕一人で食べた。次の日の朝食もご馳走になり、自転車屋さんに礼を言いに行くと、「頑張って」と励まされた。お金は必ず持ってきますと言うと、いつでもいいと言われた。そして何とか無事家に着くことが出来た。父に礼を言うと、返事をすることもなく怒ることもなくただ黙っているだけだった。

 

 

これで僕のサイクリング史は終わった。もう何も出てこない。まとめてみると・・・

 

中3:父親と一緒に能登半島(途中で挫折)

高1:父親と一緒に白根山方面

高1:1人で能登半島半周

高2:1人で京都往復

大学5回生:1人で能登半島1周

働き出してから:妻と琵琶湖1周

働き出してから:妻と淡路島1周

 

 

計7回僕は自転車旅行をしたことになる。思ったより少なかったな。これでサイクリングの話はブログに全部書いたことになる。高校生の時は日曜日に「トレーニングに行ってくる」と言って近くの山道を自転車で探検しに行ったものだ。これはかなり怖かった。帰れないかも、と思ったことも何度もあった。こんなに風な自転車との付き合いができたのも家が自転車屋だったからこそだと思う。ありがたい話だ。そしてこれが僕の旅の原点になったのは間違いない(何と言うかサバイバルな感じ?の旅のスタイルって言えばいいのかな)。

 

 

朝、外を見たら少しだけ雪が積もっていた。その後もちらちら雪は降ったが、晴れ間も見えた。今日も幸せに過ごすことが出来た。よかったよかった。