hanami1294のブログ

現在休職中の小学校教員のつぶやきです(只今復職中)。

冬眠日記17  ~徒然なるままに~

只今19時3分。今、眠剤を飲んだ。この前と同じだ。今から時間との勝負である。一体何と勝負しているのかよく分からないが、とにかく文章は書きたい。書きたいが、何を書けばいいんだろう状態である。どうも日曜日に「速聴」したのがいけなかったようだ。昨夜はやけに気分が高揚して眠りに就くことができなかった。

 

何時まで経っても眠くならないので仕方なく23時に床に就いたがやはり上手く眠れない。結局午前1時に起き出してリビングでうとうとしていた。普段は早く覚醒しても、1回は深く眠るんだけどなあ。絶対「速聴」のせいだ。聴きなれない音楽を頑張って聴いたから調子がおかしくなったのだ。

 

というわけで、書き散らかしてあった文章を発掘してみることにするか。

 

下の文章は11月上旬に書いたけれど、途中で挫折したやつだ。ちょっと添削しながら掲載するか。

 

~一昨日の夕方(←日曜日だった)、妻は帰宅した。帰宅してすぐに僕の実家から自転車を借りたいからついて来てくれと言われた。仕方がないので、一緒に実家に行き、母からおでんをもらい、自転車を父が使っていた車(やっと父名義から自分名義にした車。姉が帰って来た時に使っている)に積み込み、ひもでくくりつけた。

 

あたりは真っ暗だ。もう僕の活動時間は終わった。しかも日曜日の夜で、明日は当然月曜日である。にもかかわらず気がついたら、僕は帰り道の途中で妻に「ドライブに行かないか?」と話しかけていた。妻は「大丈夫?もう暗いよ。それにどこに行くん?」と聞いてくるので、「じゃあ、やめるか」と言うと、「行こう行こう。10㎞ほど離れたところなら大丈夫じゃない?何処がいいかなあ」と考え始めた。そして少し離れた本屋(←昔妻と結婚する前によく行っていた)に行くことにした。

 

妻は朝、一瞬フィアットに乗っただけだったので嬉しそうだ。途中上手く合流できなくて焦ったが、「ゆっくりでいいよ。慌てないでいこうよ」という言葉で落ち着くことができた。その後は順調に走り、無事本屋に着いた。妻はこの本屋では、よくいい本と出会うと言った。今日も出会ったようだ。僕は記念に村上春樹の「村上ラジオ2」を買った。~

 

 

何てことのない日常の風景だ。しかし懐かしいな。どうして完成させなかったのだろう。あれから約1カ月半が経とうとしている。僕は何かと用事を見つけて車であちこちに行っている。もうすっかりマニュアルモードで運転するのにも慣れた。マニュアルだとやはり加速する時に気持ちよく走ることが出来る。あれから随分この車と仲良くなった。

 

それにしても、だ。この可愛さといったらどう形容すればいいのだろう。毎回乗り降りするたびにチラッと見て「ウワア!」と思ってしまう。妻は「いつの時代も変わらずに可愛い車だよね」と言っていた。ここ何年かは長旅をする時以外は全部妻の車に乗せてもらっていたが、今は当然全部僕が運転している。スタッドレスタイヤに付け替えたし、こいつが雪道でどんな走りを見せるか楽しみでもあり不安でもある。

 

 

 

さて、次の未完成の文章を見てみるか。これはヤフーニュースに載っていた記事を参考に書いたものだ。

 

~それは2009年6月13日に起きた。約2300人の観客が湧いていた広島県立総合体育館。「プロレスリング・ノア」の社長兼選手だった三沢光晴はタッグマッチで斎藤彰俊と対峙していた。その後斎藤は三沢にバックドロップを放つ。どんな技を受けてもむっくりと起き上がる三沢が倒れたまま動かない。会場は騒然となり、心臓マッサージが始まる。そして広島市内の大学病院に運ばれ、そこで息を引き取った(享年46歳)。午後10時10分。死因は頚髄離断だった。

 

その年の1か月前の5月2日には忌野清志郎が58歳で亡くなっていた。その頃僕は絶賛発病中だった。清志郎の死のショックから立ち直れないまま6月を迎えたある日のニュースで三沢のことを知った。この事故でさらに追い打ちをかけられた僕は、最悪の状態に陥ってしまった。~

 

当時の「ノア」の試合はテレビでは観ていなかったが、三沢の状態がずっとよくないのは知っていた。まず体が絞り切れていない。腹が出ている。社長業に忙しくて練習もままならなかったのだろう。その状態でも試合を休まずに続けていたのだ。そして6月13日に大変なことが起きた。頚髄離断、という言葉に僕は恐怖した。離断という響きに三沢の驚異的な粘り強さと哀しみを感じた。本人も自分はリングの上で死ぬかもしれないと思っていたらしい。ヤフーニュースには、当時三沢と親交のあった人が三沢との会話を思い出しながら書いた手紙が紹介されていた。それは斎藤選手に向けられた言葉だった。

 

斎藤選手は、この事故の後も試合を組まれていた。対戦カードは多くの関係者が苦労して練り上げている。プロに「休む」という選択肢はない。宿舎へ行くように指示された斎藤選手は途中でさしかかった大きな川に降り、川のせせらぎを見つめながら考えたという。

 

死んでおわびをするか、引退してリングから去るか、試合に出るか、この三択しかないと考え、今ここで自分で自分の一生を決めなければ、と思いを定めた。結論は「試合にでる」だった。「自分が消えれば、ファンの怒りや哀しみの行き場がなくなってしまう。リングに上がって、皆さんの見える所で、全てを受け止めよう」

 

そして翌14日に斎藤選手は試合に出た。試合中罵声は飛ばなかった。むしろ温かい励ましの雰囲気だった、と斎藤選手は語っている。だが、リングの外では違った。SNSで非難が相次いだ。

 

三沢の死から数か月後、斎藤選手は1通の手紙を受け取った。それが先に書いた手紙である。手紙によれば、三沢は、試合中の不慮の事故で自分が死ぬ状況を想定し、対戦相手への言葉を遺していた。

 

「本当に申し訳ない 自分を責めるな 俺が悪い」

「これからも己のプロレスを信じて貫いてくれ」

 

斎藤選手は何十回、何百回と読み返して、その言葉を心に沁み込ませた。今も現役としてレスラーを続けている。

 

三沢光晴という男は何もかも知っていたんだろう。自分の体がもうもたないこと。そしてそれは死に直結することも。それが試合中に起こり得る可能性が高いことも。

 

そして対戦相手がどう思うかということも。知った上で知人にこのような言葉を遺したのだろう。

 

本当に器の大きい男の中の男だったと僕は思っている。今でも三沢光晴は僕の心の中にしっかりと刻み込まれている。全国の三沢ファンも同じだろう。

 

 

徒然なるままにとか書いておきながら、三沢光晴がメインになったな。

 

 

 

と、ここまで書いておきながら、8時過ぎに寝落ちしていた。昨夜の不眠?がたたったのだろう。久しぶりにスパッと眠りにつくことができた。だから今は水曜日の19時だ。

 

 

世の中、特に音楽界では、50周年だの25周年だの20周年だので大騒ぎだ。僕も今年何回か自分を祝った。365記事、500記事、600記事だ。人のことは言えない。今日もささやかながら記念日だ。これが666記事目である。やったー。