このところ心身の調子が悪い。かなり悪いなーと思っていたら、昨年も似たような記事を書いていた。こういう時、はてなブログは便利である。どうやら僕は、3月に調子を崩すようだ。
心身の「身体」の方は、喉である。風邪ではないが、常に違和感がありのど飴は欠かせない状態である。1日のうち数回は、腹筋が痛くなるほど咳が止まらなくなる。「心」の方は、何だか前向きになれないというか、気がついたら1日が終わろうとしているというか、そんな感じである。ブログを更新していないというのもつまりは、頭が回転していないということである。
また、世界は大変な状況になっていることを考えるのも精神的にツラい。考えて何か行動を起こすわけじゃないんだけど、やっぱり気になるものは気になる。ガソリン価格も遂にリッター190円を超えたそうである。これは今から大変なことになるのではないだろうか。僕が考えようが考えなかろうが、世界には全然関係ないんだけど、こういう気持ちになっているのは、きっと家に居続けていることにも原因があるのかもしれない。
そこに来て、辺野古の痛ましい事故である。昨日、ずっとニュースを見ていて気持ちが沈んでいくばかりだった。左翼を憎んでいる僕としては色々と思うところがあるんだけれど、今一番言いたいのは、何故引率の先生が船に乗っていなかったのか?である。これだけは何をどう言い繕うとも逃れられないのではないだろうか。
ここからは、昨日書いたものである。最初の話題は、それこそ「戦争」に触れたものなので、読まれた方が嫌悪感を抱くかもしれない。でも書いちゃった=思っちゃったということなので、載せてしまおう。
最近2件気になるニュースがあったので、それに対するコメントを読んだのだが、ニュースよりもコメントの方が気になった。1つ目は、長いけれどヤフーニュースを引用させてもらおう。
“ロックバンド、ドレスコーズのボーカル志磨遼平(44)が16日までにXを更新。自身がかつて所属し2011年に解散したロックバンド、毛皮のマリーズのファーストアルバムのアルバムのタイトルを改題すると表明した。”
“志磨は15日、「ファーストアルバムの改題に寄せて」とした声明を発表。「2006年に完成した毛皮のマリーズのファーストアルバム『戦争をしよう』は、24歳だった私が、私ひとりの戦いを開始すべく題したものでしたが、今やこのことばは口にすることすらおぞましく、よって、今後はただ『ファースト』と呼称します」とした”
“続く投稿では、同バンドのファンに向けて「改題を決めたのはぼくです。しかし、ぼくのそれを決めさせたのは民衆を弾圧し命すら奪おうとする世界中の独裁者たちです」と書き出し、「ぼくは今、まちがっても彼らと同じことばを毛皮のマリーズとそのメイニアたちに口走らせたくないのです」と説明した”
“続けて「今でもぼくはあのタイトルを恥ずかしいとは思いません。ぼくはたしかに、世界に戦争を挑みました。2000年代初頭、ステージに上がったが最後無事には帰れなかった時代の、ぼくの偽らざる実感があのタイトルでした」と振り返るとともに、「僕は今、24歳のころと同じ意味であのことばを口にはできなくなってしまったのです」とし、「誰しも、自由と平和を訴えるより優先すべきことがたくさんあります。だから祈ってください。ぼくらが自由と平和を真っ先に訴えずとも暮らせる日々が一刻も早く戻ることを」と平和への願いをつづった”
僕は以前ボ・ガンボスの歌に触れ、「こういう歌は今、歌いにくくなってるのかな」「大体こういう言葉は使ってOKなん?」「こんなことを思ってしまう自分がまずいんじゃないの?」という趣旨の記事をかいたことがある。
その歌というのが「ダイナマイトに火をつけろ」と「目が覚めた」である。「ダイナマイトに火をつけろ」の方は、「そんな社会に唾を吐き ダイナマイトに火をつけろ」、「目が覚めた」の方は「ぶちこわせ ぶちこわせ 大地震で」という歌詞にひっかかった。
どちらも個人の内面について歌ったものであるが、今、言葉だけ見ると激しい言葉遣いであるのは確かだ。しかしだからこそこの曲を聴いた当時は心が沸き立った。そして時は経ち、テロが起こり、大地震もあった。そんな世の中で、この歌は言葉だけが切り取られ、NGな感じがするのは事実である。そんな風に自分が感じるんなら、世の中はかなり窮屈になっていると言わざるを得ない。っていう記事を書いたのが、一昨年の夏である。
そして今回の件である。僕の中のアラートはピコピコ鳴っている。これでいいのか?と。タイトルを変えた本人は、まあ相当考えたんだろうけれど、そんなこと(過去作品の修正)をすればキリがないのでは?と思う。作品は作品である。作った瞬間から作者の手から離れてしまい、聴き手の方に委ねられる、というのが作者と聴き手の健全な関係なのではないだろうか。大体彼らのファンは、志磨の言わんとするところは百も承知だろう。
もっと驚いたのはそのニュースを受けて書かれたコメントだ。
コメントの内容は、ほとんどが志磨遼平の判断を是としていた。それこそ言葉だけ切り取られ、変に誤解されるよりもいい対応をしたんじゃないかというようなコメントに溢れていた。是もあれば非もあるんだったら、そうだよなと見逃していたかもしれないが、圧倒的に改題OKな感じだったのが気持ち悪いな、って思ってしまった。
この気持ち悪さは、何もSNS時代に始まったことじゃないと思う。と書くと歴史的に見ると・・・と過去の日本について書かざるを得ないのだが、例によって僕は逃げさせてもらおう。ひとつだけ書くとすれば、やはり僕の憎んでいる左翼的発想っていうのかな、そういうのと似ているような気がする。悪い言い方はなくして正しい言い方に直しましょう、とか「敗戦」を「終戦」と言い換えるみたいな感じがする。
とにかく僕は、この何気ないニュースに結構な衝撃を受けたということを書き留めておきたかった。もしかしたらこういう感覚こそアップデートしていかなければいけないのかもしれない。
もうひとつある。これは先週の土曜日に読んだニュースである。
沖縄の小学校で体罰事案が起きた。校長が児童の尻を痣ができるほど蹴ったという。その後校長はすぐに教育委員会に報告をし、関係した保護者と児童に謝罪したというところまでは報道されていた。詳しいことはそれ以上分からないまま、コメントを読んでいった。そしたら、8割方の人がこの校長を擁護していたんだよね。これにも驚いたな。
大体先生が児童に体罰をしましたっていう事件が起こると、「体罰なんてもってのほかだ」という意見が8割~9割なのに今回は逆転している。読み進めていくと「校長が指導しなきゃいけないのだから、日頃から相当この児童に手こずっていたんだな。そりゃ仕方ないわ」「こういうことになったんなら、警察を通すしかないだろ?」「校長が児童に謝罪したんなら児童は『学校に勝ったぜ!』って大威張りになるだろうな、心配だわ」「尻を蹴らなければいけないのは保護者の方」とかそんな意見が多かった。
「体罰は何はともあれ絶対大人(先生)がしちゃいけない」派が少なかった(初めの方に書いている偉い人は勿論体罰を否定していた)のには何かわけがあるのだろうか?もしかして僕が知らないでいる恐ろしい事実があるとか?
ここまでが、昨日書いた分である。この2つのニュースに関するコメントが、今の世相を表してるかどうかは分からないが、僕の中では「そうなんか・・・」と妙に考えてしまった一件であった。
それでは。