hanami1294のブログ

現在休職中の小学校教員のつぶやきです(只今復職中)。

僕の癖は3枚目のLPから始まったのかもしれない

僕が自分で買った初めてのLPはボストンの「ドント・ルック・バック」だった。2枚目はエルヴィス・コステロの「アームド・フォーセス」だった。そして3枚目は・・・

 

ディーヴォの「頽廃的美学論」を買おうとしていた。まあ、3枚目にディーヴォを選ぶそのセンスにもちょっと問題があるんだけど、結局買わなかった。何を買ったかというと、同じディーヴォのアルバムで「デビュー前の幻の作品!この狂気の1枚から全てが始まった!5000枚限定!」(←こんな感じの文章。分かるでしょ?)と「!」がいっぱいついたバッタもんを買ってしまったのだ。

 

つまり何を言いたいのかと言うと、僕はどうも「今だけ限定!」とか「幻の・・・」とか「20%増量」とかそんな言葉に非常に弱いようである。いや、弱い、と言い切らなければいけないか。それで、どうも考えてみるとその傾向は3枚目の買い方からその萌芽が窺えるのではないか?と思ってしまったのだ。

 

というのも、いつもコメントを頂いているJUNさんに、「hanamiさんはライブやアウトテイクでミュージシャンを掘り下げて聴いていくタイプなんですね」と指摘されたからだ。これはもしかしたら先に述べた傾向と関係があるのではないか、と考えてしまったわけである。

 

スタジオ盤と違うアプローチで演奏しているライブ盤を聴くと、お得感がある。それは間違いない。「アウトテイク」「デモ」という言葉の響きにワクワクが止まらないのは、「幻の・・・」に繋がりそうだ。

 

JUNさんは、例えばミック・ジャガーデヴィッド・ボウイの「ダンシング・イン・ザ・ストリート」を聴いて気に入ると、その原曲のマーサ&ザ・バンデラスに遡り、デヴィッド・ボウイの「ワイルド・イズ・ア・ウィンド」を気に入ると、またまた原曲のニーナ・シモンを深掘りして聴くそうだ。こういう聴き方をして聴く音楽を広げてきたのだそうだ。だから僕の聴き方を「新鮮に思っていた」と言ってくれている。

 

僕はJUNさんとリモート飲み会をするたびに「目から鱗」状態になる。その幅広い音楽の聴き方から来る言葉に毎回打ちのめされるからだ。でももしかしたら「聴き方が違う」2人だからこそ、話が盛り上がるのかもしれない。まあ大体は僕が知らないことをいろいろと教えてもらう飲み会にはなるのだが。

 

横道に逸れるけど、ニーナ・シモンの「Feeling Good」をJUNさんとは別ルートで聴いた時はたまげたよ。ニーナのヴォーカルから入り(←まずここでウットリする)、そして演奏が始まった瞬間「ウワ~」ってなって鳥肌がたつ。そこからいろいろな曲を聴いてみてたんだけど「Feeling Good」が僕にとってはベストだったな。

 

 

話を戻そう。(戻るかな?)以前何故僕がギターを習おうと思ったのかを書いたことがある。もう一度書くと自分の好きな曲がどんな風に出来ているのかを知りたかったから、というのが一番の理由だ。この曲を弾けるようになりたい、人前で演奏したい、という気持ちからではなかった。だからこそ、自分の好きな曲を先生に持っていって主にコード進行を教えてもらっていた。

 

 

「デモ音源」には「完成前」の独特の匂いがあるように僕は思う。完成した曲の骨と皮を見せられているような音源(例えばデヴィッド・ボウイの「レディ・スターダスト」はアコギでデモを作り、完成したらピアノメインの曲になっていた)、完成した曲と全くアレンジが違う音源(ジョン・レノンの「真夜中を突っ走れ」)等どの曲も完成した曲と関係はあるが、形は様々である。そのことに僕は想像力をかきたてられる。「そうか。ここからああなって完成させたのか」「このアレンジを捨てたのか」とかね。だからこそ、「骨と皮」である「コード」や「コード進行」を知りたかったのだろうと思う。

 

「アウトテイク」では、「そうだよな、この曲は本編には入らないよな」とか「何故この曲を入れない?(←ボブ・ディランに多い)」とかこれまたいろいろな想像をしてしまう。こういうことが楽しくってしょうがない。

 

だから、そう、「メイキングもの」も僕は大好きだ。映像でも何でもいける。こういう言葉のやり取りをしてこういうアレンジになったのか?なんてことが判明するともう堪らない。

 

こういう聴き方を「掘り下げる」というか分からない。もしかしたら「墓を暴く」行為なのかもしれない。しかし、この特別感が僕の心をくすぐるのだ。

 

世の中でこういった「デモ音源」が本格的に出回り始めたのはきっと、デヴィッド・ボウイが最初であろうと僕はにらんでいる。彼がそのキャリアを総括すべく新たにそれまでの全作品をリマスター版で出すことになった時におまけでついていたのが、「デモ音源」だった。

 

ボウイの「ジギー・スターダスト」の最終曲である「ロックンロールの自殺者」が終わった後にデモ音源が流れるのには違和感を持ったが、お宝感の方が強くてありがたく聴いたものだ。デモ音源を嫌い人の中には、CDの本編が終わった後に収められていることが嫌な人もきっと多いに違いない。僕もこれは何とかならんものか、と思っている。

 

T.レックスの「スライダー」には「オルタネイド・スライダー」という、1曲目から最後の曲までまるごとデモ音源を収めたCDがあるが、あれは潔くて好きだったな。あんなのなら許してくれる人もいるかもしれない。それって結局ビートルズジョン・レノンの「アンソロジー」と一緒になるのかな・・・。あんな大物の大掛かりな作品でなくていいから、好きなアーティストのデモ音源はドシドシ聴きたい。

 

今回は僕の音楽の聴き方のついて語った回になるのかな。「限定」とか「幻の・・・」という言葉に弱いのは要するに貧乏性、という一言で済まされることかもしれない。ああ、でもこのブログも少しは関係しているかもしれない。全く知らない人のオリジナルアルバムについて書くのより、知っている人のデモやアウトテイクについて書く方が書きやすいもの。

 

 

いけない。今日はジョージ・ハリスンの回にする心算だったのに。つい喋りすぎてしまいました。

 

 

ジョージ・ハリスン、素晴らしいね。(←今頃言っている)