「ヤング・アメリカンズ」と「レッツ・ダンス」

タイトルの2つは、言うまでもなくデヴィッド・ボウイの作品である。この2枚には共通点がある。どちらも全米1位になった曲が含まれていることだ。今日はこの2枚について考えてみたい。

 

「ヤング・アメリカンズ」の方は、1975年に発売されたボウイ8枚目のアルバム。アルバムはビルボードでは最高9位(全英では2位)だったが、シングル「フェイム」はビルボードで自身初の1位になっている。

 

「レッツ・ダンス」の方は、1983年に発売された14枚目のアルバム。アルバムはビルボードでは最高4位(全英では1位)だった。シングル「レッツ・ダンス」は全米、全英ともに1位になっている。

 

「ヤング・アメリカンズ」から始めるか。アルバム「ダイアモンド・ドッグズ」(1974)を発表したボウイはアメリカ進出を果たし、全米制覇を目指して「ダイアモンド・ドッグズ・ツアー」に乗り出す。そのライブはとても大掛かりなもので、それはもうやる方は大変なコンサートだったと言われている。その後「ヤング・アメリカンズ」の録音とツアーを同時進行させることになるボウイは、アルバムの方に力を入れるようになった(後半のツアーはソウルとファンクミュージックに夢中になっていたボウイが「フィリー・ドックズツアー」と名付けた)。全米制覇のためにはソウル・ミュージックの導入は必須だとボウイは考えたわけだ。彼は自分の創り出すソウル・ミュージックを「プラスティック・ソウル」だと発言している。

 

ソウル・ミュージック界の名だたるセッションメンバーを集めて創られたアルバム「ヤング・アメリカンズ」だが、「フェイム」は最後に創られた曲だ。きっかけはジョン・レノンである。ニューヨークのナイトクラブで出会ったジョンとボウイは「名声」について話し合った。その後ジョンに気に入られようと「アクロス・ザ・ユニバース」を録音してジョンに聴かせ、「一緒に曲を創ってくれないか」と話を持ちかけたところ、ジョンがスタジオにやって来た。そして創った曲が「フェイム」である。その頃プロデューサーのトニー・ヴィスコンティはイギリスに帰って最後の仕上げにかかっていた。ボウイは彼に連絡して追加の2曲を知らせたという(同時に「ジョン・レノンと一緒に創っちゃったよ。ごめんね、トニー」と詫びを入れている)。そして第2弾シングルとして発表された「フェイム」は全米1位となる。ボウイは自身の野望を果たしたのだ。

 

僕にとって「ヤング・アメリカンズ」は長らく1曲目のタイトル曲と最後の「フェイム」だけだった。間の曲はないものと見なしていた。しかし、昔より耳が鍛えられた僕は、間の曲の素晴らしさにやっと気づくことができた。ボウイは見事にボウイ流の「プラスティック・ソウル」を創り上げている。これはハマりそうだ。

 

 

一方「レッツ・ダンス」はというと、その前の話が長くなる。「ヤング・アメリカンズ」の後、コカインまみれで制作した超名作「ステイション・トゥ・ステイション」や映画「地球に堕ちてきた男」を経て、ボウイはベルリンにいた。そこでクラフトワークなどのミュージシャンに影響を受けた音楽を創る。それが「ロウ」であり、「ヒーローズ」であった。

 

そして、その流れで「ロジャー」「スケアリー・モンスター」を発表する(「ロウ」「ヒーローズ」は超名盤と言われている。「ロジャー」と「スケアリー・モンスターズ」の方は名盤。僕は名盤の方に馴染みがある)。映画や演劇にも精力的だった。しかし、かつて「全米を制覇したロック・スター」はいつの間にか「ヤング・アメリカンズ」以前の「カルト・スター」に戻っていた。

 

そのことに鬱憤がたまっていたのだろうか。ボウイは次作をナイル・ロジャース(元シック)にプロデュースしてもらうことにする。「売れるアルバムを作りたい」というのがボウイの希望だったようだ。ヒット曲を1曲出すんじゃなくてスターダムにのし上がりたい、というわけだ。今までしてこなかったことをする、という意味ではボウイらしい。

 

この試みは見事功を奏し、世界は大変な騒ぎとなる。そしてアルバム「レッツ・ダンス」を引っさげての「シリアス・ムーンライト・ツアー」だ。僕は大阪まで観に行った。何万人いたんだろう。次の日の新聞で大きく取り上げられていたのを覚えている。最初の曲は「ルック・バック・イン・アンガー」だったはずだ。「レッツ・ダンス」からの曲を期待していた僕は少しがっかりしたが(「ルック・バック・イン・アンガー」は僕の中の順位で言うと当時は低位だった)、十分楽しむことができた。ブームタウン・ラッツ以来の外タレがデヴィッド・ボウイだったので、眩しかったよ。ボウイもスターを見事に演じていたように思う。曲はどの時代の曲も今風のポップチューンとなっていた。あの「ステイション・トゥ・ステイション」やジギー時代にやっていた「ホワイトライト・ホワイトヒート」でさえもだ。これらの曲を採用したのはボウイの心意気というか意地だったのだろうか。

 

しか~し。代償は大きかった。この大ヒットによってかどうかは分からないが、ボウイはその後10数年低迷することになる。復活は何時のことになるんだろう。僕だったら1997年の「アースリング」と答えるだろう。前作の「アウトサイド」(1995)、もうひとつ前の「ブラック・タイ・ホワイト・ノイズ」(1993)と答える人もいるかもしれない。

 

しかし僕は「ザ・ネクスト・デイ」(2013)までのボウイのアルバム(「アワーズ…」「ヒ―ザン」「リアリティ」)は買うには買ったが、あまり聴くことはなかった。「いつでも聴ける」と油断していたのかもしれない。ここまでは、割とコンスタントにアルバムを発表していたボウイだったが、以後長い沈黙に入る。リタイア説まで出ていたほどだ。僕もボウイのことは失念していた。そして発表された「ザ・ネクスト・デイ」は2003年の「リアリティ」以来実に10年ぶりのアルバムだった。この作品は素晴らしかった。そして最後のアルバムは、3年後の「ブラックスター」(2016)だ。ボウイは自分の死を意識しながら作品を創っていた。つまりこれが自分のラストアルバムなのだということを分かっていた。この作品を聴く時はちょっと緊張するな。決して流しては聴けないアルバムである。

 

全米制覇を目指していた20代後半のボウイ、そしてメインストリームに乗りたいと思った30代半ばのボウイ。ちゃんと結果を出したのは凄いと思う。そしてこの時期のボウイが最近気になる僕である。

 

 

と、ここまで書いてアップルミュージックで検索してみたら、11月26日に「ブリリアント・アドベンチャー」という作品がリリースされることが分かった。これは「ブラック・タイ・ホワイト・ノイズ」から「アワーズ…」までをリマスターした作品プラス僕の好きな「ライブ・アット・BBC」が収録されている。今のところ「プラネット・オブ・ドリームス」という曲だけ聴くことができる。曲は普通と言ったらちょっと失礼だが、まあそんな出来だ。でも「デヴィッド・ボウイ&ゲイル・アン・ドーシー」とクレジットされているのが嬉しい。僕はゲイル・アン・ドーシーの大ファンだからだ(彼女は後期ボウイバンドを支えた名ベーシスト)。