hanami1294のブログ

現在休職中の小学校教員のつぶやきです(只今復職中)。

コントロール欲求をコントロールするのが課題

今朝珍しくテレビをつけていたら、成田悠輔の声が聞こえてきた。番組は「羽鳥慎一モーニングショー」だった。ほう、朝の地上波にも出るんだ、と思っていたら番組の後半は彼の著書「22世紀の民主主義」特集だった。何でも18万部を売り上げているらしい。すげーなと思いながらもこんな思い切った発言をする人の本が売れるなんて、みんなきっとイライラしてるんだな、と思った。結構な時間を取って特集していたので僕はもう本を読んだ気になっちゃったよ。それにしても番組冒頭の可愛いインコについても話を振られたら気の利いたコメントを返す彼の力量は素晴らしいね。そういうところが人気のひとつなのだろう。

 

そういえば、成田悠輔やひろゆきの番組を観るようになって、分からない言葉が頻出して困ったんだった。それは最近教育ブログを覗くようになってからもあった。大体「オワコン」も分からないような僕であるから、ついていけないのは当然である。恥ずかしいけど具体的に書いていこう。

 

まずは「イシュー」「レイヤー」「メタバース」「インセンティブ」「詰んだ」「ニッチ」「レべチ」「無理ゲー」などだ。いや、何となくは分かるんだけどね、とか言い訳しちゃってる時点でダメだよな。教育関係では「シームレス」「ファシリテーター」、それから多分ファッション関係だと思うけど「セットアップ」。もうこの際、ちゃんと調べよう。よーし、書くよ。

 

「イシュー」・・・英語で「課題、問題、論争点」などを意味する「issue」から来ているビジネス用語のひとつ

「レイヤー」・・・層、階層などの意味を持つ英単語。何かの構造や設計などが階層状になっているとき、それを構成する一つ一つの階層のことをレイヤーという

メタバース」・・・コンピュータやコンピュータネットワークの中に構築された、3次元の仮想空間やそのサービスを指す。

インセンティブ」・・・直訳すると「動機・刺激・奨励」といった意味になり、ビジネスシーンで使われるインセンティブは、仕事の成果に応じて支給される成果報酬(金銭的インセンティブ)や、表彰や人事評価(金銭以外のインセンティブ)などのことをいう

「詰んだ」・・・「終わった」という言葉から生まれた言葉。「物事が終了したとき」や「どうしようもない状況になったとき」「全体的に崩壊してしまったとき」に使われる。「人生オワタ」や「学生生活オワタ」といった表現で使われる

「ニッチ」・・・「すき間」や「適所」を意味する。西洋建築用語で「壁面のくぼみ」を指し、「くぼみ」のイメージから「すき間」を意味する言葉になった。また、壁面のくぼみにオブジェを飾るイメージから「適所」の意味も加わった。主に経済やマーケティング分野などのビジネスにおいて使われる。ニッチ市場とは、「潜在的な需要は認識されていても、従来の商品やサービスではその需要を満たせない市場」のこと

「レべチ」・・・「レベルが違う」という意味

「無理ゲー」・・・難易度が高く、クリア不可能な無理なゲームのこと。派生して、難易度が高くて実現不可能な課題のことを指す

 

ふぅー。疲れた。すごいなスマホは。僕の要求にちゃんと応えてくれる。もうちょっと頑張るか。

 

「シームレス」・・・「継ぎ目のない」という意味で、転じて複数のサービス間のバリアを取り除き、容易に複数のサービスを利用することができることを指す

ファシリテーター」・・・ファシリテーションといった能力を活用しながら、会議などの場で参加者に発言を促したり話の流れをまとめたりする人のことで下記のような役割を担う。「会議や研修などの進行役」「参加者に発言を促すサポート役」「会議や研修の目的であるゴールに参加者を導く誘導役」

 

最後にもうひとついくか。

 

「セットアップ」・・・トップスとボトムスがお揃いになっている服のこと。上下が同じ色・同じ素材で作られているタイプと、違う色・異素材で作られていて一緒に着るとセットに見えるタイプの2種類がある。

 

 

うーん、なんか思うことはあるんだけど、まあいいか。意味が分かったんだし。このまま終わるとタイトルに偽りありになってしまう。

 

コントロール欲求をコントロールするのが課題。これは全国の教員、特に40代より上の人ほぼ全てが抱えている課題ではないだろうか。端的に言うと、子どもを自分の都合のいいように動かす、ということだ。例えば授業をする時にどうしても自分が思い描いたような進み方を(コントロール)したい、だから自分に都合の良い反応を子どもがするとそこを拠り所にして授業を進めがちだ、とかね。あるいは子どもが何か言った(質問した)として、それをそのまま受け止めるのではなく、「うん、これは・・・」とつい自分の都合というか立場を考えて答える、とかね。そういうことを日々していると思うのだ。意識的ならまだしも、もう無意識にそういうことをしてしまう、そんな人間になっちゃっていると自分で思うのだ。これはまずい。口では「子ども主体の授業をしたい」と言っておきながら、その実、自分のことを一番考えていることになってしまう。常にマウントを取りに行く、というほどじゃあないかもしれないけど。もしかしたら子ども達にはそう見えているかもしれない。結局は自分の裁量で子ども達を動かしたい(コントロールしたい)のだ。

 

自画自賛するわけではないけれど、僕は常々こう考えていた。「先生が」教え込む授業ではなく、「子ども(達)が」自ら学んでいく、そういう風に授業をしたい、と。学習に取り組む際の主語が違うのだ。この「主語が違う」ということを最近のブログを読むと結構書いてあった。ちょっと自慢が入ってるけど、「うわあ、やっぱりこういう風に考えるのって変じゃあないよね」と思った次第である。

 

しかし、それを実現するために立ちはだかっている壁が何回も言うが先生(自分)が持っている「(子どもを)コントロールしたい」という欲求だ。授業をする、担任をする、という作業は、コントロール欲求との戦いである。僕はイメージとして大きな柵を自分が作って、その中で子ども達が自由に動き回ればいい、柵を超えそうになったら「それ以上行くと危ないよ」と言えばいい、と思っていた。柵は広ければ広いほど子ども達は自由に動き回れる、と思っていた。しかしどうもその考え方自体間違っているような気がする今日この頃である。

 

 

たとえ「〇〇は君達で決めればいいよ。任すから。先生からの条件はこれとこれね」と言って何かを決めさせることになったとしても、ずっと口出しせずにいるのは難しい。上手く決められなくて子ども達の方が何か言ってくるかもしれない。そんな時でも黙って突き放すことがなかなかできない。

 

 

だからお前は2学期からどうするつもりなのだ、具体的に言えよ、と思われるかもしれない。そこなんだよなあ。今のところは、工藤勇一の言葉を実践していきたいな、と思っている。つまり、何かしらトラブルを抱えている子どもがいたら次の3つの言葉を投げかけるのだ。「どうしたの?」「それでどうしたいの?」「こういう支援ならできるけど」。この3つの言葉を胸に刻んで2学期に臨みたい。

 

今日もリハビリ文章になってしまったかな。もうちょっとリハビリが続きそうだな。おやすみ!