どうしても児童に「させる」ことを忌み嫌ってしまう

 僕の勤務している学校の教室に掲示してあるものの一つがこれです。
交流で使いたい言葉
   ・~ってどういうこと?
   ・どの言葉からそう思った?
   ・くわしく言って 短く言って
   ・つまりどういうこと?
   ・たとえばどういうこと?
   ・どうしてそう思った?
   ・〇〇さんはどう思う?

 「交流」は友達同士で意見を言い合う場を表します。
 これを児童が「使いたい」?マジか?と思わず凄んでしまいそうです。正直言うと怒りに震えました。「使いたい」のは、授業者であって子ども達ではない!もっと言うと授業者が子ども達に「使わせたい」言葉だ。

 これらの言葉は、本来最初は、授業者が言うべき言葉ではないのだろうか。先生が使う言葉を真似て子ども達も使いだすんならそれでもいい。でも、自校の先生達が全員これらの言葉を意識して授業をしているとはとても思えない。それをこうやって掲示しておいたら子ども達が自然に使いだすと思っているのだろうか。ならないと、僕は思う。じゃあどうするのか?授業者からねじ込んで、子ども達に「使わせる」のだろう。

 「させる」ところからは、本当の力は生まれないのっではないだろうか。
 

 じゃあ、僕が、子どもが上のような言葉を使って発言できるといいな、と思った時にはどうするか。そんなの、「たとえば…」って子どもが言いたくなるような授業にするしかないではないか。そのために、「物分かりの悪い先生」になるのも一つの手だろう。物分かりの悪い先生にイライラした子ども達が、「先生、たとえば…」って言いだすかもしれない。「だって…だから…」と言う言い方かもしれない。ここで一つハードルは超えた。子どもの方から出てきてほしい言葉が出てきたのだ。次にすることは、「こんな時『たとえば』っていう言い方(『だって…』という言い方)、分かりやすいね!」と価値づけることである。「これ、みんなも使えるようになると相手を説得させられるかもね。」とか言って黒板の右上に「たとえば」と書く。そして次にその言葉を使った子どもを必ず見逃さないことだ。「〇〇さん、『たとえば』を使えたね。素晴らしい。」と言えば、周りにも段々浸透してくる。←浸透するまで授業者は「たとえば」を意識していなければいけない。つまり、使ってほしい言葉が出るように仕向けた授業をすること、そしてそれを見逃さないこと、さらに価値づけること。この3つのステップを踏んで初めて言葉というのは、子ども達に身に付いていくのではないだろうか。それをしないでただ掲示しておくことや、「これ使うといいよ。」と先生が言うだけでは、本当に身に付いたとは言えないんじゃないかな。