hanami1294のブログ

現在休職中の小学校教員のつぶやきです(只今復職中)。

「主体的・対話的で深い学び」についての雑感

昨日の続きになるかは分からないが・・・。

 

教育界で何年も前から囁かれている魔法の呪文、「主体的・対話的で深い学び」。

 

何となく使っている(つまり僕は、はっきりと自分なりに定義づけできていない)この言葉に反発する人はいないであろう。僕は、「学力」という言葉も一体何が学力かはっきりさせてほしいと思っているタイプなので、この言葉にもかすかな反発を覚えている。分かって使っているのかい?と。

 

僕が普段思っているのはただただ児童が「~たい」と思う授業をしたいということだけだ。「自分で考えたい」「友だちの意見を聞きたい」「図をかいて確かめたい」「計算して確かめたい」「他の場合でもあてはまるのか確かめたい」などなどである。

 

「それが主体的ということだろう?それでいいじゃない?」と誰かに言われても今一つその人の言うことを信用できない。何故だろう?

 

いつも書いていることだが、どうもわざとらしく感じるのだ。多くの人は「主体的に『させている』活動」のことを「主体的な学び」と呼んでいるように感じてならないからだ。だからそんな人から言われても困る。

 

今勤務している小学校で僕がイメージしているような主体的な学習をしているクラスはないと思う。だって授業の流れは決まっているんだもの。単元のめあてを書いて、問題を提示し、課題を書く。自力解決の時間を取って、次は集団解決の時間だ。何となく分かったような気に児童がなったら、まとめを書く。振り返りを書く。適用問題を解く。この流れをみんなが同じようにしなければいけないのだ。教委曰く、「教員を守るため」らしい。特に若手教員を守りたいらしい。学校全体で同じように授業をしていれば、保護者からつつかれることはないからだそうだ。でもそんな形式的なもので育つものって何だろう。先生の望む答えを必死に探す子どもになるのではないだろうか。若手教員にしたって、こんなことをして授業力がつくとは思えない。

 

「対話的」と言う言葉にしてもそうだ。誰かと意見を交流していればそれが「対話的」だと思っている人は多いと思う。そこにも「させる」ことが潜んでいると思えてしょうがない。児童からの「~たい」が感じられないのだ。さっき書いたような「友だちの意見を聞きたい」「自分の考えを話したい」などの気持ちが生まれるように仕向けること、これこそが授業というか教育的な活動なのではないだろうか。

 

「最初は何をすればいいか子ども達も分からないから教えてあげないと」と言う先生もいるだろう。それは一理あるかもしれない。でも僕はそんなの嫌なのだ。知らないうちに子ども達が「学習しちゃってる」、そして「分かっちゃった」というのが僕の考える「主体的・対話的な深い学び」だ。

 

だから、「交流する時に使うといい言葉」なんてものを教室に掲示してあると、正直辟易としてしまう。そんなもの掲示する前に、そうなるように仕向けろよ、と思ってしまうのだ。

 

前にこういう人が本当の「教師」というんだな、という記事を書いたことがある。まさしくその先生は、何かのやり方を児童に押し付けたりはしない、ただただ「なぜ勉強するのか」ということを全身全霊を込めて言うだけの人だった。そして45分間のうちに子どもの姿がどんどん変わっていくのが分かる(分からない人もいた…)。また、子どもが話す未熟な発言を必ず正確に聞き取っていた。ここが大事なところだと思う。その先生は「この子は何を言うのか大体分かる」と仰っていた。そんな神業できるわけないじゃん、と思っていたが歳を重ねるごとに「それこそ(児童の発言を正確に聞きとること、そしてどの児童がどんなことを言うのか分かること)が自分に足りないことなんだ」と分かってきた。

 

その力は授業者がどれだけ子どもと教材に向き合ったかにかかっている。その先生は厳しかった。それは同時に子ども一人一人を大切にしていることでもあった。

 

今の教育界は、謳い文句とは反対の児童を育てようとしているとしか思えない。

 

と、偉そうなことを言っている僕もやっていることは同じだ。僕の受け持っている児童は、未だにいつまでもどこまでも受け身だ。先生が何か言うのを待っている。授業者の「教え」「育てる」の「育てる」意識が低いからそうなるのだ。