ロック偉人伝 ~イギー・ポップの巻~

今日は久しぶりに午前3時前に目覚めた。この時刻に起きたんだから、ひとつ音楽を聴きながら記事を書いてみたい。今日のテーマはイギー・ポップである。BGMは彼が1977年3月に発表したソロ1作目「イデオット」にしよう。最近イギーを聴くようになったが、一体何十年ぶりだろう。どうしてこうなったのかは不明だ。

 

僕が初めて彼を目にしたのはストゥージズ時代のアルバムジャケットである。そのアルバムは邦題として「淫力魔人」と名付けられていた。少年時代でも何となく分かるこの言葉の禍々しさに驚き、ジャケットに写っていた上半身裸のイギーの姿にもこれは自分とは違う世界のものだということを強く感じた。後年このアルバムをJUNさんから借りた時は、原題の「ロー・パワー」になっていた。その後も「イデオット(白痴)」「欲望」と思い切った邦題が付けられていたと思う。これも勿論今では原題に戻されている。

 

彼の名前が一躍世界に轟いたのは映画「トレイン・スポッティング」(1996)であろう。この映画の冒頭で「ラスト・フォー・ライフ」が使われたのだ(ごめん、観てないけどそういうことらしい・・・)。この曲も発表されたのは1977年である。つまりは1996年までは、イギーは一般市民に認知されていなかったわけだ。

 

ここらでイギーの音楽活動を俯瞰してみよう。ウィキペディアの最初には「過激なステージパフォーマンスで知られたアメリカのロックバンド『ザ・ストゥージズ』のメンバー。ソロミュージシャンとしても知られ、多くの作品を残している」と書かれている。「ザ・ストゥージズ」時代なんて数年のことなんだけどな。でもまあ、このバンドでの活動があったからこそ、イギーとしてのアイデンティティーが形成されたとも言えるか。

 

続けて「『ザ・ストゥージズ』時代の業績により、『ゴッドファーザー・オブ・パンク』とも呼ばれ、後世に大きな影響を与えていると同時に、本人も後輩のミュージシャンたちと積極的に交流し、・・・」とある。繰り返すが「ザ・ストゥージズ」時代(第1期)なんてそれこそ1969年1970年あたりだし、「ゴッドファーザー・オブ・パンク」も1978年あたりだよ。もう大昔の話だ。後輩との交流なんてもっともっと後のことだよ。もう少しウィキに頼ろう。

 

ザ・ストゥージズ時代の「アイ・ワナ・ビー・ユア・ドッグ」「サーチ・アンド・デストロイ」、ソロミュージシャンとしては「ラスト・フォー・ライフ」「ザ・パッセンジャー」などが代表曲として知られており、特にザ・ストゥージズ時代の代表曲は様々なミュージシャンにカバーされている。2010年、ザ・ストゥージズ名義で「ロックの殿堂入り」。2017年にはフランス芸術文化勲章の最高位「コマンドゥール」受賞、だって。昔は「淫力魔人」だった人だよ。フランスは狂っているとしか思えないな。

 

ウィキに「ミュージシャンとして」という項があるが、これがまたどうして?というくらい事細かにいろいろなことが書かれている。特に1990年代までが異様に詳しく書かれている。2000年以降はさらっと読めるくらいだ。それで何を事細かに書いているかというと、「イギーのダメっぷり」である。この人はどうしようもないジャンキーなのだ。何度も何度も病院に入るがそれでも性懲りもなくヘロインに手を出す男なのだ。だからこそ「ロック偉人伝」第1回に相応しいのだ。まあ最初からみていこうか。

 

初期の音楽活動:1960年―1967年

 イギーはドラマーとしてキャリアをスタートさせている。そしてボ・ディドリーの「モナ」をカバーしたシングルを発表している。つまりはブルースを演奏したかったのだ。ところがなんだかんだあって挫折し、「自分のような若者に向けた音楽」をプレイしようと決心してバンド活動を始める。

 

ザ・ストゥージズ:1968年―1974年

 最初はインストルメンタルバンドだったザ・ストゥージズだが、イギーは既にフロントマンとして自覚し、後に自分を有名にすることになった観客を驚かせるパフォーマンスを行うようになっていた(奇抜な服装とかステージからダイブするとか)。これは1967年にザ・ドアーズのコンサートを観て、ジム・モリソンに影響を受けたからだと語っている。大ヒットを出しているのに客に毒づくジムを見て「これをやらない手はない。これならできる」と思ったらしい。そしてジムの上をいこうと思った彼のステージパフォーマンスは徐々に過激化していく(割れたガラスの上を転げまわったり、局部を露出したり)。

 そしてファーストアルバムが1969年に発表される。セカンドアルバム「ファン・ハウス」は1970年に発表される。しかしその間にもイギーが薬物依存に陥り療養生活に入るなどしてごたごたしたため1971年にザ・ストゥージズは解散を宣言する。

 

イギー&ザ・ストゥージズ:1972年―1974年

 どう?細かいでしょ?こんなのがずうっと続くのである。薬物依存で苦しんでいたイギーが何故復活したかというとデヴィッド・ボウイのおかげである。「こいつは面白い」と(多分)思ったボウイがイギーに声をかけて交流が始まった。そして発表されたのが「ロー・パワー」である。1973年のことであった。発表されるまでに色々とごたごたがあった。発表された後もごたごたがあった。読んでいると気が滅入るくらいだ。で、最終的にほっぽりだされたイギーであった。

 

デヴィッド・ボウイとのベルリン時代:1976年―1978年

 相変わらず薬物依存に苦しんでいたイギーに手を差し伸べたのはまたしてもボウイだった。いや、そんな親切な男でもないか。ボウイ自身もヘロインで苦しんでいたから上から目線で接することができると思ったのかもしれない。この時期にイギーはボウイプロデュースでソロアルバムを2作(「イデオット」「ラスト・フォー・ライフ」)発表している。ここからがイギー・ポップソロ活動の始まりである。「イデオット」は商業的に成功し、その後のソロツアーでも成功したことでまとまった収入を得たイギーは、ボウイとの共同生活を終了する。どれくらいまとまった収入かは分からないが、これまでで最大の成功であったと思われる。しかし「ラスト・フォー・ライフ」のプロモーションに不服だったイギーはライブアルバムを出して、RCAレコードを離れ、ボウイの下からも立ち去った。

 それにしてもデヴィッド・ボウイのプロデュース能力はすごい。ルー・リードの「トランスフォーマー」(1972)も大傑作アルバムだし、イギーの2枚についても大傑作だと言えるだろう。ベルリン時代をボウイ側から振り返ってみよう。

 1977年1月14日リリース 「ロウ」/デヴィッド・ボウイ作品

 1977年3月18日リリース 「イデオット」ボウイプロデュース

 1977年8月29日リリース 「ラスト・フォー・ライフ」ボウイプロデュース

 1977年10月14日リリース 「ヒーローズ」/デヴィッド・ボウイ作品

どんだけ仕事してるんだ?しかも全部傑作なんですけど。ここまで書いてきたが、ボウイがいなかったらイギーは間違いなく野垂れ死にしていただろう。後年ボウイはこの時代に作ったイギー作品を何曲かカバーするわけだが、その中でも「チャイナ・ガール」をセレクトして世界中で大ヒットさせたのは凄いと思う。

 

 

ふう。疲れた。これ以降の彼の活躍ぶりはまた今度書くとしよう。最後に「ラスト・フォー・ライフ」の訳を引用させてもらうとするか。無断で使ってごめんよ。でもスラングが多くて訳するのも大変だったみたい。

 

「ラスト・フォー・ライフ」

 

ヤク中のジョニー・イェンがまた来やがった 

キマッってる上、ベロベロに酔っぱらって 例の女をつれて

またストリップショーを始めるらしい

 

おいおい、そのローションをどこで手に入れた?

俺は今心が痛むんだよ 愛とやらを見つけて以来な

そう、愛というものを そうだな、催眠鳥(?)ソックリになれるぜ

 

俺だって、流行は追っかけていたよ

もちろんヘロインを打ちもしたけど ただ俺は今、生きてみたいんだ

本能ってヤツさ

 

俺には100万ドルの値打ちがあるんだ

あの残酷な映像のお陰だろう GTOを運転してさ

ただ、病院送りになっちまって 国にも借りを作っちまった

 

俺には100万ドルの値打ちがあるんだ

そうさ、もう歩道に寝ることなんてないんだよ バカみたいな頭痛なんてまっぴらさ

バカみたいな頭痛なんて

どれもヤクと酒のせいだった

ヤクと酒のせいだったんだよ

 

 

 

まあ、イギー自身のことを正直に歌うとこうなったのかな?っていう曲である。それにしても素晴らしい曲だ。あ、それと重要なことを書き忘れていた。僕がなんでイギー・ポップイギー・ポップって騒いでいるかというと彼の声にやられたからである。この声で歌われたら心が荒んだロック少年はそりゃあもう一発でノックアウトされるよ。現代の若者にも聴いてほしいものだ、イギー・ポップ。現在75歳である。