冬眠日記その50 ~キリっと真面目に、の巻~

文部科学省は(1月)31日、教員不足の実態に関する初めての全国調査結果を公表した。文科省によると、全国の公立小中高校・特別支援学校が今年度当初に配置された教員数は、各教育委員会が予定していた教員数に比べて2558人不足していた。全体の5.8%の1897校が該当する。教員の職場環境の厳しい実態が判明した・・・授業が停滞するといった深刻な事態は把握していない」という記事を読んでいろいろ思うことがあった。

 

いろいろ思ったのは他の人も同じだったようで「もっと給与を上げろ」とか「教員希望者が少ないのはそれだけブラックだから」とか「働き方改革とか言って何もしていない」とか「残業代不支給を是正せよ」とか「教頭が担任になって校長が授業をするって・・・」とかいろいろなコメントが見られる。

 

のっけからこんな話題で書き出すなんて、今日の僕はどうしたというのだろう。いやに真面目じゃないか。大雪が降りそうだからかな。それにしても、どこもかしこも教員不足なのか。今日はもう休日ということは忘れてキリっと真面目にいこうじゃないか。最後まで気を抜かずに頑張ってみよう。

 

僕の勤務している学校には現在病休している教諭が1人、軽業認定(持ち時数が少ない等)されている教諭が1人(僕だ)いる。病休している教員の代替教員は来ていない。これから来る予定もない。だから教務がそのクラスの担任となり、各担任が1時間ずつ負担して学校を回しているのが現状だ。昨年度もこんなことがあった。もう常態化しているし、休むとなったら自分で講師を見つけてこい、という冗談が飛び交うくらいだ。そのくらい講師になってくれる人はいない。

 

退職者にもかなりしつこく募集をかけていると思われるが、きっと断られ続けているのだろう。もし僕が今62,3歳で仕事から数年離れていたのなら、躊躇無く断る。それくらい今の教育現場は色々な意味でなんだかな~という状態であると思われる。

 

躊躇無く断る理由は「62,3歳でしばらくブランクあり」だったら授業が成り立たないのではないか?と思うからだ。それくらい今の児童と教員との間に乖離が生じているように思う。もちろん割り切って教科書通り淡々と進めるということもできるかもしれないが、うーん、どうなんだろう。そうすると早晩児童にそっぽを向かれるに違いない。そっぽを向かれるくらいならまだしも、学級が崩壊すると、目も当てられない。こんな風に考えて講師を断る人もいるのではないだろうか。

 

僕はきっと軽業認定されているからこそ、こんなにのんびりとした調子で書くことができるのだろう。現場の最前線にいる人は大変だろうと思う。この前担任を兼務している教務と話したら愚痴が飛び出す飛び出す。腹の中は真っ黒だったんで驚いたよ。

 

昔と違って子どもの質が変わった、と言われることもあるが確かに、と思うことも多々ある。今はとにかく学力の2極化がすごくて、どこから手をつけていいのか分からない児童はクラスの中にたくさんいる。それに加えて特別な支援を要する児童(ADHDとかLDとか広汎性発達障害とかいろいろ)も確実にいる。そんないろいろな状態の児童が混在しているクラスで児童一人一人が「できるようになった」と実感できる授業をしていくのはかなり困難である。特に基幹教科である国語と算数は厳しい。だから講師を断るというのもありそうだ。

 

子どもの質も変わったが、教員の質も変わった。上手く言えないが、何だろう、疑問を持って仕事をしていないんだよね。人間相手の仕事をしていると特に「これでいいのだろうか?」「これってどうなん?」という気持ちを常に持ちながら仕事をし続けるものだと思うのだが、どうも今の若い人たちからはそういうものが感じられない。つまり細かい実務的な疑問はあっても「つまるところ授業ってどうやって(何を目指して)するものなの?」「子ども達を育てるってどういうこと?」等の根本的な疑問を持って仕事をしている感じがしないということである。だから、喋っていても齟齬が生じる。そう思っているのは年寄りだけかもしれない。でももし今書いたことが事実ならば、50代の教員の責任は大きいと僕は思っている。もちろん自分も含めて。

 

僕が若かった頃は、随分と年上の先生に教えられ、叩かれた。と書くとそれこそ年寄りの昔話のように聞こえるかもしれないが、そこには教えられ叩かれるだけの「時間」があった。今はそんなこと考えているといつまで経っても話が終わらないし、決着もしないので、根本的なことはすっ飛ばして話している。そして自分達は根本的なことを若い人達に話す機会を作らなかった。この責任はかなり大きい。それじゃあ若い教員が疑問を持たないのも当然とも言える。まあ、もっと向こうから求めて来いよっていう気持ちもあるのは事実だが。

 

その結果、妙に物分かりがいいというか、訳知り顔をする人が多くなったなあと感じる。具体的に言うと、教科書に疑問を持たない人が多くなった。前にも書いたけれど、「17個のあめがあります。3人に同じ数ずつ分けると何個配れて何個余るでしょう」なんて問題は、僕は悪問だと思っている。何で最初から余ることを前提に問題を書いているんだ、それじゃあ子どもの「気づき」を育てられないじゃないか、というのが僕の言い分だ。もしかしたら僕の方が浅はかなのかもしれない。でもこういった疑問を持ちながら授業に臨んでいるという痕跡が彼ら若い教員には見当たらないのだ。教科書に書いてある問題の通りに授業を進めることに主眼を置いているように感じる。しかしそんなこと無理だ。ここはひとつハッキリと断言しておこう。教科書は、全国の児童の平均を考えて作られたものであって、決して今、目の前にしている児童に向けて作られたものではない。だからこそ、今目の前にいる児童達が「分かった」って思うようするにはどうやって授業をしたらいいんだ?と考えるのが教員の仕事だと僕は思っている。

 

そして学校全体が今書いたような状態だったら、子ども達はどうなるのか。それは授業をしても「積み重なる」学力が育たない、という事態になる。子ども自身が能動的に考えて掴み取ったものなら、学習内容は「積み重なる」。でも、現状はただ教員から言われたことをこなしているだけなのだから学習内容が「積み重なる」ことはないと言っていい。そして上の学年に行けば行くほど、学力の2極化は進むのだ。毎時間毎時間砂漠に水を撒いているようなものだ。

 

 

 

後半はかなり断言口調で教員の質について書いてしまったが、多かれ少なかれ現状はこんな具合であろう。これを解決するにはどうしたらいいのだろう。おんなじように思う管理職がいたら、その学校は変わるかもしれない。子どもの姿を変えるには大人が変わらなければいけないということだ。

 

ちょっと偉そうだったかな?

 

 

最初の教員不足の記事から、遠い所に着地してしまったな。ああ疲れた。ドラマ観ようっと。