hanami1294のブログ

現在休職中の小学校教員のつぶやきです(只今復職中)。

秋眠日記16 ~「深い読み」って簡単に言うなの巻~

火曜日に研究授業があった。僕は2年ぶりに研究授業というものを見た。その後の授業整理会にも出席した。かなりの快挙だと言えよう。授業を見るのは楽しかった。

 

しかし、何だかいろいろなことを考えてしまったよ。例えば今の自分があるのも先輩の存在があったからだ。研究授業をした時は、諸先輩に色々とダメ出しをされたものだ。そしてその先輩の言葉や態度を聞いたり見たりして自分のスタイルを作っていった部分はおおいにある。それでは、先輩の立場となった今はどうか。若い人たちが見て、勉強になる存在になっているかと言ったら全然なっていない。自分のことで精一杯である。それに前にも書いたが、授業整理会でダメ出しをすることは現代にはそぐわないらしいから、僕もきつい言葉を言うことは控えている。現在のような状況を招いてしまったことについて、今の50代の先生や指導主事にはかなりの責任があるのではないかと思った。これが思ったことのひとつである。

 

もうひとつは「言葉って使う時によほど吟味してからでないと安易には使えないな」ということである。偉そうな物言いで申し訳ないが、授業者も児童も参観している人もみんながみんな薄っぺらな言葉遣いをしているなあと思ったのだ。もっと言えば「授業も整理会も『抽象的な言葉』で溢れていた」。例えば整理会で出てきた「みんな深い読みをしていた」という言葉。「深い読み」って何だ?児童のどんな言動で分かるの?どう書いたり言ったりすればA評価になるのだろうか?先生達は自分で深い読みができていると思っているのだろうか?だとしたらそれって相当傲慢なんじゃないか、とかね。

 

もう少し細かくみていこう。

 

本時のめあては、「『〇〇のいのち』から考える命とは?」というものだった。もうそこから言葉が抽象的過ぎてよく分からなかった。「〇〇のいのち」というのは、立松和平の作品「海のいのち」「山のいのち」「田んぼのいのち」「木のいのち」「牧場のいのち」という「いのちシリーズ」の諸作品のことである。まず「海のいのち」を全員で学習してから、それぞれが読みたい本を選び、自分にとっての「命」とはどういうものなのかを考えていくという計画になっていた。

 

指導案に書いてあるねらい(めあて)は、「『命』についての考えをまとめることができるように、登場人物の人物像や物語などの全体像を具体的に想像したり、表現の効果を考えたりすることができる」というものである。指導案のねらいからしたら、今日の児童に伝える課題は「『〇〇のいのち』から考える命とは?」というのは妥当だったのか?(先ほども書いたが)抽象的過ぎやしないか?と思った。

 

そして授業者は児童に「今日何勉強するんだった?」と聞く。児童は「まだ分からないところがあるから、それを解決したい」と言う。だったら本時のめあては僕だったら「自分の疑問を解決して、命についての考えを深めよう」にするな。そして前述したように「深める」という言葉はとても抽象的だから「深めるってどういうこと?」と児童に聞くなあ。今までの授業でも「深める」と言う言葉はおそらく使ってきただろう。しかしここはもう一度再確認すべきだ。もしくは思い切って「いのちシリーズの主題を考えよう」にするかもしれない。この場合も「主題」と言う言葉の意味を再確認する。

 

しかし、どうも今まで「深める」とはどういうことかを確認することをしてこなかったんじゃないかと思う。先生も児童も「深める」と言う言葉を当たり前のように使っている。だから話は必然的に抽象的な言葉(上っ面な言葉、と言えばいいかな)が飛び交うことになる。

 

話が抽象へ向かえば向かうほど、いつでも具体に戻ることができる、そういう作業ができないとどんどん言葉が上っ面になると僕は思っている。いつでも具体に戻れるんだ、ということを意識していれば、話し合いは実りあるものになるかもしれない。じゃなければ話自体がどんどん抽象的になってしまうし(綺麗ごとばかり言うようになる、と言ってもいい)、それはとても楽なことなのだ。児童にとっても授業者にとっても。この「ラク」というのが曲者なのかもしれない。

 

話は飛ぶかもしれないが、「きちんとする」とか「一生懸命する」という言葉はとても抽象的な言葉だし、児童も安易によく使う言葉だ。こう言っておけばいいだろうという気持ち(「ラク」だから)が見え隠れする言葉でもある。そういう時僕はいつも児童に「君にとっての『きちんとする』ってどういうことなの?」と問いかける。すると、それぞれの児童がいろいろなことを言う。それでもまだ具体的な表現にはならないことが多い。それを詰めて詰めて考えさせてやっと具体的な表現に行きつく。それくらい学校には抽象的な言葉で溢れている。

 

「深める」とか「深い読みができていた」という言葉は、それくらい「自分なりにでも定義づけて使わなければいけない言葉」だということが授業を見て分かった。

 

僕が考える「深い読み」というのは、まず「最初は少ない言葉でしか表現できなかったもの(こと)が、より具体的に豊かに(長い文章で)書き表すことができること」が第1段階で、第2段階は「主題に迫る文章を書くことができる」ことだと思っている。第2段階までいった時にA評価になるのだと考えている。

 

 

 

その後も抽象的に授業は進んでいく。「今日の課題を解決するためには次のことに気をつけましょう」と授業者は言った。

 

「物語全体を読んで考える」「物語を比べて読みながら考える」「一部分の叙述だけ考えても意味はない」の3つだ。授業整理会では「話し合う視点がはっきりしていてよかった」という意見が多くの人から出ていた。僕は「え~、あんなので分かるん?」と思った。僕にとってはいちいち引っかかる言葉ばかりだったからだ。

 

3つとも「それってどういうことなん?」と思った。何より児童がそのことを果たしてどれだけ理解しているのかはなはだ疑問に思った。

 

 

とはいえ、こういうことを考えられるようになったことは、僕にとっては喜ばしいことなんだろう。

 

 

日曜日に昔ブログで書いたことのあるサカグチ先生(今の僕の大部分を作ってくれた大恩人)と会うことになった。色々な質問をぶつけて話を聞いてこよう。この先生も主治医同様、即答する人なんだよなあ。

 

 

とか何とか書いちゃってると、妻が「ねえねえ、『救急車は人を運ぶ車です』って1年生が言ったとすると(『これじゃあ不十分よね?』)、あなたはどう返す?」と聞かれた。すぐに即答できないでいると妻が、「うちの学校の先生は『ふうん、先生も乗れる?』って聞くんだって。どう思う?」と自慢げに話した。「子どもの言ったことに乗っかるってそういうことよね」と妻に言われた。

 

もう今まで書いてきた屁理屈がぶっ飛んじゃうくらい説得力がある一言である。こういう問いかけを「深い読みへと促す発問」というのだろう。朝っぱらから仕事のことで大変盛り上がる家ではある。それにしても即答できなかった自分が情けない。