便利は便利なんだけれど

今頃というか今更と言うか、授業でiPadを使うようになった。といっても、教科書の資料を拡大したり、注目してほしいところに印をつけたり(指で。ペンは何故か導入されていない)するだけだが、もうこれがないと授業が成り立たない。

 

あとは動画か。教室によってiPadとアップルTVとの相性が良くないので、自分のスマホを使って見せている。これももう欠かせなくなった。(これだけで満足しているローテク野郎です)

 

 

このような機器を使って授業をするようになって飛躍的に児童の集中力が向上した(と思われる)。その一因はスピードだ。資料を探す時間が省かれる。全員が同時に同じ資料を見ることができるのだ。これは大きい。今まではどこに資料があるか探すか、こちらから「〇ページの資料を見て下さい」と言ってやっと学習に入ることができた。しかも探す時間に個人差があって僕も含めて待っている児童は微妙にイライラしていたはずだ。

 

だから今はストレスなく学習することができる。しかし本当にこれでいいのだろうか?という思いは拭えない。だって全部お膳立てして勉強してるんだもん。そんなんでどんな力がつくというのだろう。

 

最初の1時間目はそりゃあこちらから何らかのものを提示する必要があるだろう。しかし児童が資料が必要だと感じ、それを探す、という行為こそ学習なのではないだろうか。

 

まあ、今僕の勤務している小学校は児童一人に一台パソコンを持っているから、さらに上手く使えば僕のイメージしている授業ができるかもしれない。いや、でも児童の個人差は何をどうしてもついてまわるだろう。

 

今年度のような授業をしていると児童の学習に対する個人差が「悪」になってしまうような気がする。だからいろんな機器を使って授業をするのはとても便利だけど、失うというか育てられないものもある様に思う今日この頃だ。

 

翻って自分の生活ではどうか?今の僕はブログを書くのもそうだし、ユーチューブを見ながらギターの練習するのもそうだが、児童とおんなじだ。パソコンとかスマホがなくては困る、というかそれがない生活は考えられない。

 

昨日からギターの練習を始めたが、ユーチューブがないと手も足も出ない。いつからこんなに怠け者になったのだろう。

 

思えば2000年代頃からCDやDVD付きの教則本が出回りだして、僕はそれを頼りにギターの練習をしていた。それでもよく分からないところは多少なりとも自分で考えたり(耳コピに挑戦するとか)、反対に投げ出したりしていた。それより昔はもっとひどかった(僕の場合)。教則本を見ても何も分からなかったもの。

 

ああ、それからギター教室に行っていたのも大きかったな。「この曲のコードを教えて下さい」と言ったら教えてくれたもんな。そして何故こんなコードが使われるのかとかの蘊蓄も語ってくれたもんな。

 

何回か前に「ユーチューブを観て師匠を探したい」と言っていたが、それも事実だ。便利になったこの世の中を思い切り利用すればいいじゃないか、と言われそうだが、少し罪悪感を持ちながら今日もこれからユーチューブを観ることになるだろう。

 

今日は一体何回「ユーチューブ」って書いたんだろう。

 

弦も無事換えることができたし、メトロノームも発見したし、今日も練習するぞ。