hanami1294のブログ

現在休職中の小学校教員のつぶやきです(只今復職中)。

今年の勤務もあと3日

木曜から日曜まで4日間学校に行っていなかった僕だが、今日から3日間は勤務日だ。無理はしないで、取り敢えず午前中だけ働いて(というか自分の教室にいて)、午後からは年休を取る予定でいる。午前だけとはいえお前は自分の教室とやらで一体何をするんだ?そうなんですよね。何しようかな。勿論いろいろなプリントの整理が僕を待っているには待っているのだが、あとは何を?そりゃあ、2学期の整頓が終わったら3学期の準備だろう、という声が聞こえてくる。僕も心の中ではそう思っている。でも、ねえ。そればかりじゃあ、煮詰まるよ。

 

 

というわけで、少しだけ整理できた僕は今、教室でこれを書いている。何だよ、やっぱりブログか、と言われそうだ。そうだよなあ、じゃあ研修の一環として仕事面での今年(4月~12月)を振り返ってみるっていうのはどうだろうか。これで許してもらうことにしよう。

 

今年は昨年度に引き続き、教科担任として4,5,6年の社会科を担当している。4月1日に校長が他の職員に「hanami先生は今年度(も)軽業です」と言ったので持ち時数は、他の人より少ない。

 

4月には社会科の授業に関する本を大量に買った。昨年度のような授業はしたくなかったからである。しかし読めば読むほどよく分からなくなってきた。本の内容は、「社会科の見方を育てるっていうのはこういうことです」「例えば・・・」とか、読み込めばその分汎用性が高まり、授業のスタイルが変わりそうな内容だったが、如何せん時間が無い。はっきり言うと、僕はもっと即効性のあるものを求めていた。

 

そこで僕は再びアマゾンを彷徨い、「社会科365日の板書」みたいなタイトルの本を大量に買うことになる。それはそれで「なるほど。これは使える」と思うところもあったが、どうも今の自分の感覚に擦り合わせてみると今ひとつすっきりしない。当然だ。本の通りにやってみても、それはロボットみたいなもんだ。あ、でもひとつはっきりしたことは「例えば・・・」と「つまり・・・」をもっと使うべし!だ。

 

この2つの言葉を意識していれば授業ができると思った。「例えば・・・」は帰納的な考えをする時に遣う言葉で、「つまり・・・」は演繹的な考えをする時に遣う言葉だ。授業はこの2つの言葉を(つまり具体と抽象を)行ったり来たりしながら進んでいく。どの教科でもそうだ。これは是非意識して遣っていきたい言葉だと思った。

 

そうこうするうちに授業を始める時期になった。結局僕は新しいことをほとんど身につけることなく、ほぼ今までの授業スタイルで臨むことになった。

 

担当する児童は、6年、5年は昨年度も担当した児童である。4年は初めてだ。現6年は僕がこの学校に赴任した時から関わっているが、昨年度の後半はかなり精神的に厳しかった。担任の先生は11月から病休し、もう一方の先生は4年から持ち上がりだった分、大分煮詰まっているようだった。クラスの状況が芳しくないことは級外の僕からも分かるほどだった。現5年は、4年生の時にはしり上がりに調子が上がっていった感触があったので、精神的に余裕があった。現4年は、まだ僕という人がどんな先生なのかを分かっていない。だから、4月5月の授業の大半は授業ってこんな風にやるんだよ、という話ばかりしていた。

 

6年生は、まず政治の学習をする。その後歴史の学習に入る。新しい学習指導要領からこういう順番で学習しているが、未だに馴染まない。今まで通り、サクッと歴史の授業から始めて、3学期は政治、国際関係の学習をすればいいじゃないか。最初に政治の学習をする意味が分からない。

 

それに5年の3学期から社会科でも煮詰まっていたこの学年は、政治の学習でもどんどん煮詰まっていった。やっと政治の学習が終わって、歴史の学習に入ったのが5月半ばだった。その頃僕は1冊の教育書を入手していた。「面白ネタでつくる全時代の授業プラン&ワークシート」という本だ。この本は教科書では扱わないネタをクイズ形式にして導入として使い、その後その時間に学習する内容を確かめ、最後に「天下統一に一番貢献したのは、信長、秀吉、家康のうち誰?その根拠は?」といったように正解のない問いから社会的な見方・考え方を鍛えていくという(僕にとっては)優れものだった。

 

早速この本を基にワークシートを自分なりに作り、授業をしたところ、意外にも子ども達が食い付いてきたので、「これはいけそうだ」と思いながら授業をすることができた。しかしながら1組の雰囲気はどんどん悪くなって、僕はそのクラスから外れることになった(前に書いた)。

 

 

 

現在13時半。今は家に居る。午前中4時間半学校にいたというのに何してたんだろう?

 

ホントに何をしていたのだろうか。思い返したくもない。只々時が過ぎるのをぼぅっとしながら待っていただけのような気もする。今日は15時に歯医者、16時半にギター教室がある。ぼやぼやしていられない。さっきの続きから書くか。6年1組から外してもらったところからだな。

 

1組の授業から外してもらって代わりに3年の書写を持つことになった。2組の方は2学期の最後まで、いい感じで授業をすることができた。少しだけその時の様子も記事にした。そうすると今度は5年生問題が浮上してきた。

 

1学期から校長には言われていたから、5年生の雰囲気があまりよくないことは承知していた。しかし僕が社会の授業をする限りは、まあまあ普通に授業ができていた。しかし、これも最近書いたが、5年のクラスは男尊女卑の考えが蔓延るようになっていった。クラスの在り方について話しをしたこともあったな。単なる級外が喋っても担任と連携が取れていなければ全然効果はないんだけどね。2学期末はなかなか大変だったなあ。

 

4年生はというと、クラスの状況はどちらも落ち着いてきたと思う。しかし、僕の教材研究がへなちょこだった。児童には申し訳ない思いで一杯である。

 

 

仕事面を振り返る趣旨で記事を書き始めたはずなのに、いつの間にか各クラスの様子を愚痴っている文章になっている。まずい。なんか社会科の授業に関することを書かなきゃ。

 

うーん・・・・。はっきり言えることは一つかな。6年の授業は、従来の授業形式は捨てて、自分のやりたいようにしているってことだ。従来の授業形式とは、最初に今日のめあて(課題)を黒板に書いて(子ども達と共有し)、それについて自分で調べて、その後みんなで話し合い、最後にまとめを書く、という流れだ。自分の勤務する地方だけなのかな、ちょっとよく分からないけれど、とにかくどの授業もそういう流れで授業をしなさい、ということになっている。

 

僕は歴史の授業から、この子らにこのような授業の形式を押し付けても全然(ダメ)だ、と思い、ワークシートを使って、いきなり「歴史クイズです」と言い、そこから授業を進めていくことにした。だから課題は書かない、まとめも書かない、そんな授業だった。そんなことしてたらテストの点数にひびかないのだろうか?と思ったがそんなに変わらなかった。ということは、別に絶対決められた授業形式に拘ることはない、と勝手に結論付けた。もしかしたら今、全国の教諭から嘲笑されているかもしれない。でもこうすることで僕は自由を手に入れた、と思っている。

 

しかし、4年5年はそうはしていない。特に5年は昨年度から学習問題を自らが見つける、という取り組みを続けているので、今も単元の初めに、そのような時間を設定している。

 

例えば水産業の学習なら、資料をいくつか見せて今日本はこんな状況だけど、さて、君達は何を勉強したい?という時間を作るということだ。これは続けて取り組んだ分だけ力がついたと思っている。「なぜ~か?」「なぜ~なのに~になっているのか?」「どんな風にして~か?」等自分なりに問題意識を持って学習に取り組めるように努めている。

 

仕事の話はこれくらいにしておこう。今日は頑張った。僕は満足である。さて、ギタ練するか。(歯医者から帰ってきたところ)