hanami1294のブログ

現在休職中の小学校教員のつぶやきです(只今復職中)。

自分の体の中にいる「鬼」

今年(昨年の冬休み)は当然のことながら、讃岐うどんを食べに香川県まで行くことはできなかった。

 

香川に行ってうどんを食べた後に必ず「宮脇書店」という本屋に寄ることにしていた。普通の本屋さんなのだが、不思議なことに讃岐うどんの旅で宮脇書店に寄って見つけた本には「当たり」が多い。思いつくところでは、花村萬月「たびを」(2005)、岡村靖幸岡村靖幸 結婚への道」(2015)だ。

 

今日の「邂逅の森」(文庫本2006)もそんな「当たり」の本だった。しかしこれはいわゆるジャケ買いだった。作家の熊谷達也のことも全然知らない。何となく面白そうだな、と思って買ったらあっという間にその物語世界にもっていかれてしまった。

 

大雑把に言うと、これは「マタギ」の話である。一人のマタギ(富治)がどのように生きてきたかが生き生きと描かれている。

 

ウィキペディアには「大正から昭和初期にかけて、秋田県阿仁町打当に生まれたマタギ・松橋富治の波乱の人生を描く。自然に対する畏敬の念をテーマとしている」と書かれている。

 

ホテルに戻って何気なくパラパラページをめくっていた(僕の悪い癖だ)。方言が使われていて読みづらい。が、ある言葉でハッとした。「オレの体には鬼がいる」。正確に書くと「俺のー俺の体には、鬼がいるー」。である。

 

自分の中にいるどうしようもない、飼い馴らせない何者か、についての話には敏感な僕(きっと自分の中にある「鬼」を自覚しているからだ。モラルに反する何かを。ああ嫌だ恥ずかしい)は「これは腹を据えて読まねば」と思い、最初から読み始めた。それが夕食前のことだった。そして夕食後もベッドで読み続けた。

 

マタギとして暮らしてきた富治は胆入りの家の娘に夜這いをかけてその娘と密かに付き合うようになるが、それがもとで村を追われる。その後鉱山に入り働くが、友だちを庇うことでその鉱山からも出ることになる。最終的には鉱山の知り合いの家に居候し、そして曰く付きの女と結婚し再びマタギとして生きていくことになる。最後の章では山最強の熊と壮絶な戦いを繰り広げる。

 

読んでいるうちにこの地方の方言が堪らなく愛おしくなったり、マタギ猟の時の独特な言葉かけに興味を持ったりしてページをめくるのが止まらなかった。

 

「自分の中に鬼がいる」という言葉あるいはそれに類する言葉を物語では3人が発している。1人目は主人公の富治。鉱山で友人を庇って大暴れする富治は「自分の内部に潜む、悪鬼のごとき獣性に慄き恐れた」。2人目は居候することになった友人小太郎。彼は、身持ちの悪い姉、イクと情交していた。そのことが富治にばれて、「俺の中にも姉貴の中にもどうしようもねえ鬼が潜んでいるんでさあ」とポツリと呟く。3人目はイク。女郎屋でイクを買った富治はその場で結婚を申し込む(まあ村の重鎮からそうするようにいろいろ言われたわけだが)。その時にイクは怒り狂い、「俺のー俺の体には、鬼がいるー」と小太郎と同じ言葉を漏らす。富治は目を逸らさずに「俺はクマ撃ちだすけ、鬼の一匹や二匹、なんぼでも撃ってやれるでな」と返し、イクを泣かせる。

 

物語を読むときにもう一つ僕が気にする場面が情を交わす場面だ。この物語でも何か所か富治と女性が情を交わす場面があるが、その書きぶりは僕が気に入るものであった。ちなみに花村萬月山川健一村上春樹等の書く性的描写は抑制が効いていて、しかもさりげなくはしたないから好きだ(僕も「400」で挑戦してみたが、難しかった)。

 

また、熊を解体する様子や熊の胆なんかのことが詳しく描かれていて僕の心をウットリさせた。こうやって解体し、肉を喰らうんだ、と思ってしまう。

 

「邂逅の森」(2004)はシリーズ物でその前は「相剋の森」(2003)という現代のマタギについての物語で、「氷結の森」(2007)と合わせて「マタギ3部作」と呼ばれている。

 

「ウエンカムイの爪」という作品でデビューした熊谷達也はしばらく自然をテーマにした作品を書き続けていたが、その後はさまざまなジャンルの作品を書くようになった。

 

 

                             (もう少し続けたい)