帰国した僕は、先生方にお土産を配り、のほほんと夏休みを過ごしていた。その頃の僕は、本屋に行って何か面白そうな本はないかと物色することを割と日常的に行っていた。
2学期も始まり数か月たった頃、例によって僕は行きつけの本屋に行って唖然とした。これは…。もしかして、あれか?彼女が書いた本か?
恐る恐る手に取って読んでみると、ベトナムでの著者と3人の男との出会いが書かれていた。3人目はどう考えても僕だ。1人目と2人目はさっと読んだところとても格好良く描かれていた。僕はどうなんだろう。
やはり…。そうだよな。かなり情けない男として描かれている。僕はチラ見しかできなかった。でも。でも、俺が本に載っているんだ。こんなこと一生ないぞ、どうする?買うか?
かなり逡巡した結果、僕はこの本を購入した。そして家に帰って妻にはばれないように隠しておいた。次の日の朝、妻が学校へ行ってから僕はもう一度本を取り出し読み返してみた。やはりかなり情けない男として描かれている。でも、同時に大きな違和感も抱いた。
この本に書かれていることは大体において事実だ。それは認めよう。でもこれはほんとに俺なのか?彼女が勝手に作り上げた(カリカチュアライズした)人物ではないか。「彼女自身の物語」を作り出すために作られたキャラクターではないか。話し言葉等微妙に違うところが多い。「事実」を使って新たなキャラを作る、それはもう物語の領域だと思った。僕は事実と真実は違うと激しく思った。
このことは今も胸に刻んでいる。事実と真実は違うのだと。
僕について書かれた本文章は2回読んでその本は封印した。
彼女はその後、小説家としてデビューし、何作も発表することになる。映画化された作品もあった。今も元気にいろいろなお話を書いているはずだ。僕はタイトルに惹かれて彼女のエッセイを1冊買って読んだことがある。しかし、どうしても過去のことが頭をよぎり、話をそのまんま受け取ることができなかった。それ以降彼女の本を読むことはなかった。
ベトナムで僕が体験したことは以上で終わりです。
うーん、ひとつのテーマでこれだけ書くのも久しぶり、というか初めてだ。楽しいもんだな。テーマさえ見つかると。
あ、あと、海外旅行をして思ったんだけれども…。それは「自分だけの情報をつかみ取れ」ってことだ。それも「手で触れられるくらいの情報」。そうじゃないと、自分のものにはならないっていうか自分の中には入らない。僕が旅していたのはネット社会黎明期のことだったけど、今でもこのことは通用するんじゃないかな。そして自分だけの情報を持っている奴の方が強い。だから大事なことはネットに頼るな、と言いたい。「地球の歩き方」(まだあるのかな?)にも。
でも、彼女が書いた文章が、本当に人から見た僕だとしたら…。そう考えるとおそろしい。
(おしまい)