hanami1294のブログ

現在休職中の小学校教員のつぶやきです(只今復職中)。

顔も文章も声も「凛8可愛さ2」

向田邦子を初めて読んだのはいつの頃だったのだろうか。1981年の飛行機事故のことはニュースで知っていた。その後読み始めたはずだから高校後半から大学時代にかけてのことだと思う。

 

寺内貫太郎一家」(1974)「阿修羅のごとく」(1979,1980)は観ていた(「あ・うん」(1980)は記憶にない)。「阿修羅のごとく」は僕にはきっと難しかったと思う。内容も内容だし。しかし何故か家族で観ていた記憶がある。僕が夢中になったのはお決まりかもしれないが、あの音楽である。あれが鳴った時の心のざわめきは忘れられない。レコードがないか探したが見つからない。教員になって音楽の時間に「世界の音楽」の紹介をしたら、CDからあの曲が流れた時はたまげたな。

 

しかし、本に手をのばしたのはさっきも書いたが向田邦子の逝去後だ。1冊目は何を読んだかは覚えていない(「父の詫び状」かな)が、2,3冊目はよく覚えている。「霊長類ヒト科動物図鑑」と「無名仮名人名簿」だ。1冊目に「こんな分かりにくいタイトルの本じゃあ売れない」とある人から言われたと書かれていたので、さっそく買ってみたわけだ。

 

何故かエッセイばかり読んでいて、小説はあまり読まなかった。多分僕は精神的にまだ幼かったのだろう。エッセイを読んで昔の昭和の暮らしに思いを馳せていた。

 

彼女の著作を読むようになってから、つまり彼女の死後、時折思いついたように向田邦子特集が組まれた本を見つけることがあった。「向田邦子が愛した食器と食べ物」とかね。そういうのは必ず買っていたな。

 

そして、これが一番大事なことだけれど、その特集に載せられた彼女のビジュアルは圧倒的だった。美しいってこういうことなんだと思った。それを見てまた彼女のエッセイを読み返したものだ。中野翠の記事でも書いたが僕は彼女の書く文章に「凛とした美しさ」を感じていた。「可愛さ」も。しかし、彼女の写真を見た時は「文章だけじゃなく、こんな凛とした佇まいの人が書いていたんだ」とウットリしたものだ。その思いは今でも変わらない。

 

最近NHKのBSで「突然あらわれ突然去った人~向田邦子の真実~」と題した番組を観た(「アナザーストーリーズ」)。そこで彼女の肉声を聞くことができた。声も美しかったし、喋りも上手かった。妹の向田和子の話も良かった。「喪失感はないです。私の頭の中には邦子は生かし続けたいと思っている」という言葉にグッときた。また小学校時代の作文も紹介されたが、その描写はもう小説になっていた。

 

脚本家の大石静は「向田さんは独特の人間の中のエロスと毒を描き出している」と語っていた。「毒」は分かる気がするが、昔は「エロス」が今一つピンとこなかった。今は昔より分かる。しかし、向田邦子とエロスって、その組み合わせだけでもうエロスを感じるぞ。

 

編集者の横山は向田が「『着物のたもとにたまる綿ごみのように気づかないうちに記憶の中にたまっているものを書きたい』と話し、短編の連作小説を書き始めた。それが『思い出トランプ』だった」と語っていた。予想に反して男女関係の微妙な話ばかりだったそうだ。大石静は「かわうそ」という作品について「絶対に小説というフィクションにしなかったら向田さんの言いたいことは言えなかったと思う」と語った。向田邦子自身は、「テレビのドラマは何本書いてもシャボン玉みたいに消えてしまうんですね」と話していた。形に残るものとして小説という表現方法を選んだのだろう。

 

そして「向田邦子の恋文」についても和子は語った。これは向田邦子が20代の頃から付き合ってきた10歳以上の結婚しているカメラマンと交わした恋文のことだ。「出したくはないです。妹としては」と迷う和子の背中を押したのは編集者だった。「ずっと後世のことを考えてもこういうことがあったのは残しておいた方がいい。若い時の向田さんが走り回っているのが浮かんでいるような手紙とメモだった。」と。和子は「横山さんの『どんなに下手でもどんなに遅くても待ちますよ。あなただけにしか書けないことをお書きになることを待っています』という一言で目が覚めた」と言った。等々見どころがたくさんある番組だった。

 

「恋文」のある箇所で『邦子の誕生日ですもんね』と自分で自分のことを「邦子」と書いてあるところはもう胸がキュンとしたよ。

 

それにしても今ちらりと「無名仮名人名簿」を読んでみたが、やはり文章に惹かれる。そしてその観察眼と洞察力は凄い、としか言いようがない。今、向田邦子がいたら何をどんな風に書いたのだろうか、と思わずにはいられない。