hanami1294のブログ

現在休職中の小学校教員のつぶやきです(只今復職中)。

僕はこっちタイプ

また傲慢なものの言い方になってしまうかもしれないけれど。

 

東書のわり算の筆算の単元でこんな問題がある。
「76まいの色紙を、3人で同じ数ずつ分けます。1人分は何まいになって、何まいあまりますか。

目標は「2位数÷1位数(余りありで、各位ともわりきれない)の筆算の仕方を既習の除法の計算方法を基に考え、計算することができる。」である。

前時は、筆算の仕方を学習し(余りなし)、本時では余りが出てくる場面である。

 

僕は、初めてこの問題文を読んだときに唖然とした。何で最初っから余ることを書いてあるんだ、と。

 

最初っから余ることを問題に明記することに疑問を感じる僕は、前時と同じように「76まいの色紙を、3人で同じ数ずつ分けます。1人分は何まいになりますか。」と子ども達に問題を提示する。式は、前時と同じ考え方なのですぐに立てられる。筆算になったときに子ども達が「えっ?」とか「あれっ?」と言うのを期待しながらじっと待っている。そのうちに子供たちの方から「あっ、分かった。」と言う声も聞こえる。何に「えっ?」と思ったのか、何が「あっ、分かった」のかという子どもたちの発言を軸に授業を組み立てていけば本時の目標は達成できるのではないか。

 

文科省検定済の教科書は、数字の一つ一つまでこだわって作られていること、問題もまた然りだということ、すなわち問題を変えたり数字を変えたりすることには非常に慎重にやるべきだということは散々言われてきた。でも僕はわりとそれを、つまり数字を変えたり問題の一部を変えたりすることを抵抗なくやる。目の前の子どもを思い浮かべながら、必要だと判断した場合には。

 

でも世の中にはそんな僕の姿勢に抵抗を感じる人の方が多いように思う。何でだろう?教科書が絶対だと思ってるのかな?教科書の問題に他の先生は疑問を持たないのかな?

 

僕はただ子ども達から「えっ?」とか「あっ!」と言わせたいだけなのだ。それが学習だと思うからだ。

 

僕はあまり文科省の言うことを聞かないタイプのようだ。