昨日は何とはなしにネトフリで「グランメゾン東京」を観ていた。妻は友人と夕食だったので、眠くなるまで観てしまった。
そんで思っちゃったんだよね。感動したっていうか。三ツ星を狙うシェフが、何度も何度も試行錯誤を繰り返して、やっと1品を作り上げる。それを繰り返してメニューを創り上げていく。そのためには寝る間も惜しむ。他にも犠牲にすることは多々ある。でも本当の職人ってこういう感じなんだろうな。
才能があるだけではダメなのだ。それよりももっともっといい作品を創りたいという追及心とそれを苦労と思わないで寧ろ楽しむこと、そういうことが何かに打ち込む人には必要なんだと思った。言い方を変えれば、質よりも量なのだ。圧倒的な量をこなしてこそ、質の高いものが生まれるのだと僕は思う。
教職という仕事もそうだと思う。本当にいい授業をしたいと思うのならば、ワーク・ライフ・バランスなんて言ってられないのだ。それは、今の時代でもきっと変わらないんだと思う。今どきの若い人がどうとか言う話じゃなくて、誰でも何かを目指すのなら、何かを犠牲にしなければいけない。ドラマを観てそんなことを思った。クサイかな?ダサいかな?
まあそんなことを思い返しながら、今朝YouTubeを観ていたら、興味深い動画があったので紹介することにしよう。
教育界には美しい言葉がたくさんあります。でもそれってホントにできんの?っていう言葉から動画は始まる。一つ目は「子どもが課題をつくる」って簡単に言うけど、本当にできると思っているのですか?というタイトルである。
今の教科書は、単元の冒頭で子どもたちが「課題をつくる」という構成になっている。子どもが主体的に学ぶ姿のひとつの手段としてのものであるが、ホントにそんなことができるのか?という話である。
ここで使う「課題」とは、例えば社会科ではその単元全体を貫く課題、つまり教科のねらいのことである(「なぜ武士の時代はこんなに長く続いたのだろう」とかね)。教師だって課題づくりに苦労しているのに、子どもがそのような課題を作ることが可能だろうか。そもそも課題をつくるには前提となる知識が必要である。知識のない状態でどうやってできるの?と動画の先生は言っている。
僕もこの「子どもが課題を作る」ということに苦戦していた。正直言うと、社会科ではその冒頭部分(子どもに課題を作らせる活動)を端折っていきなり本題に入るという授業をしていた。こんなのナンセンスだと思ったからだ。僕と同じようにしていた先生はきっとたくさんいるはずだ。
でもいつまでもナンセンスだと言って逃げ続けても、取り組んだこともないのに批判はできないな、と思って挑戦を始めた。ちょうど教委が見に来る計画訪問があったから、その時にやってみたのだ。
それ以来、どの学年でも「子どもが課題をつくる」活動は取り入れてきた。僕なりに試行錯誤してみたが、突き詰めて言うと、やっぱり無理なんだよね。今日見た先生の言う通りである。知識がないのに課題なんて生まれてこないんだよ。無理して考えさせた課題は、結局その場しのぎのものでしかなかった。僕がこんな気持ちで授業をしていたから、子どももしんどかったと思う。これについては、ごめんなさいと言うしかない。
今もこの課題づくりに悩んでいる先生たちは、多いように思う。でも、今度の教科書も同様の方向性で作られていくのだろう。美しい言葉に踊らされて苦労するのは教師で、それで子どもたちの何がしかが奪われる。
もういっこの話題はこんなんである。「自力解決」っていうけど、自力で解決できない子はどうするんだ?である。
算数科では、既習事項を使って新しい問題を解く時に「自力解決」の時間をとることが多い。問題を教師が提示した時点で、少しだけ児童と教師がやり取りをしてから(今までの問題と同じところや違うところを話したりとか)、「じゃあ、まず自分でやってみよう」と自力解決の時間をとる。
この時点で、塾で習って答えを導き出せる子、既習事項を使って解決できる子、全く分からない子に分かれる。
分からない子は、この自力解決の時間を無為に過ごすことになる。その後グループ活動に入ったりクラス全体で話し合ったりするが、分かっている子が教えるという構図を作るだけになる。それに分かっている子は結論だけを言ってしまうことが多い。この問題がなぜわり算で解けるのかを説明しないし、できない。これでは、単にこの問題はわり算で解く、ということだけがインプットされるだけである。いや、それさえも頭に入らない児童も多い。
これに対して、私だったらこうする、というのを動画で紹介していた。
まず例題を教師が一緒に解いて、ほとんどの子ができる状態からスタートすれば、分からない子は救われる。分かっている子は復習になる。次の問題で、自分で解く。これだって自力解決であると先生は言っている。僕もこれには賛成である。
この2つの話題で分かることは、昨日書いたような「個別最適な学び」というのを本当にやろうとするのならば、教師に相当の力量がなければいけないということである。つまり「個別最適な学び」という形をとるのならば、その前段階で一斉授業でどのようなことを児童に理解させるのかが重要になるということである。
しかし世の中の風潮としては、一斉授業という形式は軽んじられ始めていると思う。僕は、現在の子どもの状況を考えたとしてもまだまだ一斉授業でできることはたくさんあると思う。そのための授業研究は、これからも必要になると思っている。
でも、こういうことを考える時間がないのも分かる。職人的な態度で授業を考える人が少なくなっているのも分かる。このことこそが、今の教育界の底流にあるということは忘れてはいけないことなのではないだろうか。
ついつい熱くなっちゃった。しばらく教育界のことは考えないことにしよう。今度こそ音楽ネタを書くぞ。
それでは。