今、世の中が大きく揺れ動いているのは家に籠りっきりの僕でも分かる。世界情勢や日本の政治や経済、社会全体に関わる問題(物価高とか円安?移民問題とか?インフラ全国老朽化とか?トランプ大統領は一体何考えてんだとかまだまだあるよね、きっと)とか。日本を再興させる最後のチャンスだとも言われているような気もする。
翻って自分が約30年間働いてきた教育界はどうだろう?こちらの方も色々言われている。思いつくだけでも「教員不足」「ブラックな職場」「教員の質低下」「保護者対応や書類などやることが多すぎる」などなどだ。
少しだけだけど、今の教育現場がどうなっているか見てみたいという気持ちはある。特に僕が勤務していた市は、僕が辞める前後に大きく教育方針を変えたからあれはどうなったんだ?というのは非常に気になる。
でも何だかんだ言って、現場はそれなりに動いているんだろうな、とは思っている。もう1学期の最初から、教員不足であることが常態化していたし、それでも何とか回してきたのだ。大変は大変だろうが、目の前に子どもがいるんだからやるしかないよね。
でも一応、もう少し教育界の混迷について思いつくままに考えてみっか。
「個別最適な学びと協働的な学びの一体的な充実」
まずはこれかな?「個別最適な学び」と言われてからだいぶ経つ。これは、「児童一人一人の学習進度や興味・関心、特性に合わせて学習活動を最適化し、自己の可能性を最大限に引き出すことを目指す教育の在り方」を言う。
それを実現するために「自由進度学習」なるものが、世に蔓延るようになった(←こういう書き方をしている時点で、僕が嫌っているのがばれてしまう)。「自由進度学習」とは、自分のことを自分で決め自分のペースで学習する方法である。それを実現するための一つのツールとしてタブレット端末がある。
例えば、先進校では時間割も自分で決めたりなんかしちゃっている。つまりこっちの児童は国語をしていて、あっちの児童は算数をしているってな具合である。また、学習する場所も自由で、廊下や階段の踊り場で勉強してもいいよっていう学校もある。1人で学習する児童もいれば、グループで学習する児童もいる。
書いていて既に嫌になったが、僕はこういう方向性には反対の立場である。だからこそ教員としてやってられないなと思い、59歳で辞めたとも言える。
先進校を生で見たことはないが、動画で見たり、リーフレットを読んだりすることはあった。まず、これは教師側の準備は途方もなく大変である。色々な認知の仕方をする児童に合うような教材を作る。それだけでもう頭がくらくらする。
実際の授業で教師がする児童の見取りも大変である。誰がどこまで進んでいるか、或いは躓いているかを掴んでおかなければいけない。そして各児童に対して適切な対応をしなければいけない。20人、いや30人近くの児童がいたらこれはもう不可能であると僕は思う。
そして「協働的な学び」である。これは「子どもたちが、他者と協力し、対話を通じて知識やスキルを深め、持続可能な社会の創り手となるための資質・能力を育む学習方法」である。そして「協働的な学び」は、「個別最適な学び」と一体的に進められることが重要とされている。
書いていて腹が立ってきた。僕は賢くないので、「個別最適な学び」と「協働的な学び」をどう一体化させるのかが、よく分からない、いやサッパリ分からない。一応文科省は、個別最適な学びが孤立しないように、協働的な学びを充実させることの重要性を強調している。
もう少し文科省の言い分を書いておこう。協働的な学びには以下のような活動が含まれている。
・児童生徒同士が質問し合い、説明し合うことで問題を解決する。
・ペアやグループで意見交換を行い、話し合った内容をまとめる。
・グループでポスターを作成し発表する。
・タブレット端末を活用し、一つの資料を分担して作成する。
だって。まだそのあとに「協働的な学びの効果」「教師の役割」がつらつらと書いてあるが、タブレット端末以外は今までも取り組んできたことである。主に総合的な学習で多くの教師が取り組んだことだし、多くの教師は結構徒労感を抱いていたのではないだろうかとも思う。
だってグループ活動ひとつ取ってみても、結局声の大きい人や学力高位の人が引っ張っていかざるを得ないもん。そしてこちらが「これはマズい方向に進んでるな」って思った時には、もう介入できない(軌道修正できない)状態になってることも多々ある。あとポスターを書く時なんかは、高位の子が下書きをして、低位の子に「ここマジックでなぞって」なんて言ってるもん。これのどこが協働的なのだろうか。
文科省の言葉は確かに美しい。理想的に思えるし、理想を掲げるのは構わない。けれど、それでできるよね、っていう風に思われるのは大変癪である。そんなんできるわけないって。グループで共有できることなんてほんの少しだけだよ。大人だってそうじゃない?共有共有って言うけれど、具体的な行為についてはそりゃあ共有しなけりゃいけない場面はたくさんあるだろうけれど、どういう考え方に基づいて話すかってことを共有できるなんて幻想にすぎないと僕は思うな。
なんか段々腹が立ってきたのでもう今日はこの辺で止めるが、まだまだ教育界についての問題が思い浮かんだので、思いつくままに書いて今日は終わりにしよう。
「一斉授業はもう成り立たない(軽んじられている)」
「不登校35万人」
「少子化にどう対応するか」
「AI導入」
「学校というシステムはもう古い」
「保護者対応の大変さ」
「多様化する児童・・・選択肢を増やす→教師の負担増」
「教員の質(指導力)低下(教材研究力低下、発問の鋭さ、喋り過ぎる)」
「教師の質低下2(盗撮とかの犯罪行為)」
「タブレットの使い方」
「児童に舐められる(パワハラと言われやすくなった)」
「残業」
「学力とは何か?考える力なのか?学力テストでは測れないんじゃないか?社会に出ても誰もテストの点数がいい人が力がある人とは言わない」
「偏差値と勤務成績に相関関係は全くない」
「なんで勉強をするのか?について考える人が少ない」
こんな感じかな。これらについて考えるとなると結構大変だ。まあ明日は明日の風が吹くことだし、どうなるか見てみよう。
さっき、文科省は理想ばかり言ってると書いたが、前に記事に書いた「宙わたる教室」の最終回で理想について言及している場面があった。
偉い人はこう言った。「理想論だけでやっていけるほど世の中は甘くない。綺麗ごとだけじゃ、何も実現できない。でも必要なんでしょうね。貴方たちの存在も」
それに対して主人公はこう言った。「そんな人間にも必ず可能性があります。僕はそう信じています」。
こういうのなら分かる。僕もある意味理想を持って働いてきたつもりである。勝手な妄想だったのかもしれないけど。
それでは。珍しく朝っぱらから書いたので、不備な点が多々あるかもしれない許してちょうだい。