hanami1294のブログ

現在休職中の小学校教員のつぶやきです(只今復職中)。

冬眠日記その12 ~永野と千原ジュニアの巻~ 

先日YouTube漬けになったと書いたが、その中で一番面白かったのが、芸人の永野と千原ジュニアの対談だった。いろいろな番組を探していると、突然千原ジュニアの声で「ブランキ―」と聞こえたものだから何々?と思って観たところとても面白かった。

 

千原ジュニアの音楽遍歴を永野が聞く番組だったが、驚きの連続だった。まずは、少年の頃はご多分に漏れず歌謡曲を聴いていたジュニア。ところがこれは「みんなが聴く音楽」だ、と思うようになる。「俺はみんなが聴かない音楽を聴きたい」と思って兄のせいじに聞いたところどうやら「パンク」というものがあるらしいという。

 

そこでレコード屋さんに行って、「パンク」のレコードをバァーっと片っ端から見ていってジャケットで決めたのが、スターリンの「虫」だったそうだ。ジュニアの口から「スターリン」「虫」という言葉が出てきたときは驚いたよ。特に「天プラ」に痺れたらしい。このアルバムだけを中学時代聴き狂っていたそうだ。

 

それからパタッと音楽そのものを聴かなくなり、やがて芸人になった。そしてある日、出囃子でかかった曲の歌詞に衝撃を受けてその後も漫才をしながらもずっと「あの歌詞の続きは何だろう?」と気になってしょうがなかったそうである。その歌詞がこれだ。

 

♪新しい国ができた 人口わずか15人

♪それも全員センスのない 単車乗りばかりがそろってる

 

僕も何度か書いている、ブランキ―・ジェット・シティの「PUNKY BAD HIP」である。そこからブランキ―を聴くようになったジュニアは、メンバーとも親交を持つようになる。

 

というような話を永野に延々話すジュニアに「さすがだなぁ」「アナーキーだなぁ」と思った次第である。

 

そんな永野が書いた本が「僕はロックなんか聴いてきた~ゴッホより普通にニルヴァーナが好き!~」である。早速アマゾンで購入だ。各アーティストのタイトルがかっこいい。列挙してみよう。

 

「生放送中に俳優をビンタしたあのとき、僕は確かにカート・コバーンになった」

U2を聴いてロックは社会派じゃなきゃいけないと勘違いした」

「青春ロックなんて全然好きじゃないフリをした」

メタリカは僕にとって強くなるための通信空手だった」

羊たちの沈黙完全自殺マニュアルナイン・インチ・ネイルズ

ジョニー・ロットンピストルズを解散してからがパンクだ」

「オアシスはM-1決勝に行く音楽 ブラーは絶対2回戦で落ちる」

「ベックとビョークは『褒めなきゃいけない人』だった」

レディオヘッドは『誰か』に言われて聴くものだ」

「先生は『本当に格好良いのはローリング・ストーンズだ』と言った」

 

うーん、まだ読む前だが、どれも早く読んでみたくなるタイトルだ。多分再び忙しい日々が訪れることだろう。R.E.M、ブライアン・アダムスレイジ・アゲインスト・ザ・マシーンメタリカパール・ジャムナイン・インチ・ネイルズプライマル・スクリーム、マニック・ストリート・プリ―チャーズ、ベック等を聴くことになりそうだな。

 

是非この調子で日本のロック編を書いてもらいたいものだ。僕は早速ブランキ―を聴きながら記事を書いている。サイコーだね、ベンジーも達也も照井も。そしてふと、大学時代の感覚を思い出した。思えばあの時は深夜までまんじりともしないで音楽を聴き続けていた。深夜に聴くとスコンスコンと音楽が僕の中に入っていくのを感じたものである。現在も深夜に音楽を聴くことが続いているが、似たようなものだ。深夜に聴くと音楽がスコンスコンと入ってくる。

 

 

 

というわけで「猪木―小林戦」である。試合を1戦1戦書くようになったら終わりだな。キリがない。しかし書きたいものは書きたい。素晴らしいものは素晴らしい。この試合もまた今の目で見てもなかなか興味深い。

 

簡単にこの試合の背景を書いておこう。この試合は1974年3月19日、蔵前国技館で行われたNWF世界ヘビー級選手権試合90分1本勝負である。国際プロレスのエースだったストロング小林は団体を離脱し、全日本プロレスジャイアント馬場新日本プロレスアントニオ猪木に挑戦状を送りつけた。いつ何時、誰の挑戦でも受けると言い続けていた猪木が挑戦を受諾してこの試合が実現した。

 

このあたりは、当然新日本プロレスが既に小林を引き抜いていて、こういう形で挑戦させたのだろうと思われる。新日本プロレスではよくある話である。とにかく大物日本人対決は力道山木村政彦以来で、チケットは飛ぶように売れた。この時猪木は31歳、小林は30歳。両者ともに脂の乗り切った時期だった。

 

試合は、試合前から猪木のペースだった。レフリーの話を腕組みして聞きながら小林を見下ろす猪木。普通だ。緊迫感も何もなく、格下相手に見せる態度だ。だが試合が始まってからは序盤から緊迫感のある攻防が繰り広げられる。ここら辺はさすが猪木だ。そしてグラウンドで圧倒的に強さを見せつける。きっと猪木はいつも序盤のグラウンドの攻防で相手を見極めていたのだろう。そして猪木がバックをとったらもう相手は何もできない。上腕や肘を使って顔を擦り付ける嫌がらせもやっている。まあ、こういう戦法はズルイと言う猪木嫌いの人もいるが僕は「あ、またやってる」と思う方だ。

 

試合は(一応)一進一退の攻防を繰り広げたあと、両者がリング下に落ちる。リングに上がった時には額から流血していた猪木。これもご愛嬌だ。その後、小林にブレーンバスターをかけられるが、すぐに立ち上がってバックドロップ。その切れ味は凄まじい。間髪入れずにジャーマンスープレックスホールド。これで3カウント決着だ。小林をマットに叩きつけた瞬間足が浮くほどの勢いだったこの技で猪木は首を痛めたという。結局完治しないほどの痛め方だったらしい。それほどこのジャーマンのキレは凄かった。

 

バックドロップ→間髪入れずにジャーマンスープレックスという流れは最初から考えていたのだと思う。このように攻撃を受けてからの素早い決め方がこの頃の猪木の特徴だった。

 

インタビューでは後年まで語り継がれる「こんな試合をしていたら10年もつ体が1年しかもたないかもしれない。しかし、それがファンに対する我々の義務だと思う」と言う言葉を言い放っている。そんな猪木の姿勢から「過激なプロレス」という言葉も生まれた。

 

「こんな試合」というのはどういう試合のなだろうか。それは「相手が5くらいの力がないと見切ったら、その相手の力を7にも8にも上げて、その上で10の力で倒す」ということだ。つまりは相手の技を徹底的に受ける、ということだ。そりゃあそんなことをしていたら体は持たないよ。しかし猪木はこの姿勢を晩年まで貫き通すのだ。

 

 

今度は「気が狂った時」の猪木の試合について書きたいものだ。猪木は時々気が狂うのだ。それはそれは見ていて怖いよ。誰かがそんな猪木を「キラー猪木」と呼ぶようになった。例えばパキスタンでのアクラム・ペールワン戦(最後は腕を脱臼させた)、例えばラッシャー木村戦(ちょっかいをかけてきたセコンドのアニマル浜口に対して殴りまくった)等だ。

 

 

 

僕のプロレスブームはまだ続きそうだ。

 

 

しまった!今日はジョンの命日だった。