昨日久しぶりにブログを書いた。こちらも授業同様「やればできた」だった。1週間ほど書いていなかったので、「どうやって書けばよかったっけ?」と思っていたから書けて安心した(まあ、例によって引用まみれだったけど。今日もそうなりそうだけど)。書く前にふと自分のブログをランダムに読み返してみた。読んでみて、いやあ、よく書いていたなあ、こんなにたくさん、と思った(内容はともあれ。それにもう遠い昔のようだ)。それがずっと続いていたことにも(自分のことながら)感銘を受けた。すごいね、オレ!
というわけで、昨日に引き続き、いとうせいこうである。「善で何が悪い!」である。今日は、「『国境なき医師団』を見に行く」(講談社文庫)でのいとうせいこうを取り上げてみよう。困ったことに名言がいっぱいある。
まずは弱っちい自分に向けて一発いくか。
「善行を見て偽善とバカにする者は、生き延びた者の胸張り裂けそうな悲しみや苦しみを見たことがないのだ」
これはMSF(国境なき医師団)のスタッフが難民を「難民の方々」と呼んでいることからいとうが辿り着いた言葉だ。今までの、というか、つい最近までの僕は「バカにする側」だった。しかしいとうは、スタッフを見てこう書いている。
「MSFのスタッフが基本的にみな難民の方々へのぶ厚いような『敬意』を持っていることを理解した」「それは憐れみから来る態度ではなかった。むしろ上から見下ろす時には生じない、あたかも何かを崇めるような感じさえあった」「スタッフたちは難民となった人々の苦難の中に、何か自分たちを動かすもの、あるいは自分を超えたものを見いだしているのではないかと思った。目の前で見た椅子の出し方に関して、最も納得出来る考えがそれだった」
そしてこう続ける。
「彼らの存在の奥に、スタッフたちは、そして俺はどこか神々しいものを感じてはいないだろうかと思った。苦難が神秘となるのではない。それでは苦難が調子に乗ってしまう」
「俺が電流に撃たれるようにしてその時考えたことは単純だった」
「彼らは死ななかったのだった」「苦難は彼らを死に誘った。しかし彼らは生き延びた。そして何より、自死を選ばなかった。苦しくても苦しくても生きて今日へたどり着いた」
「そのことそのものへの『敬意』が自然に生じているのではないか」
さっき僕は自分で「バカにする側」だった、とさも改心したように過去形で書いたが、これを書いている今も僕の姿勢はきっと変わっていないのだろう。いとうせいこうの言う通り僕は実際に現場に行って「生き延びた者の胸張り裂けそうな悲しみや苦しみ」を見ていない。そして見ていないことを想像する力もない。そんな俺に何が言えるんだろう。かと言ってこの本を読んでしまった以上、「善行を見て偽善とバカにする」ことはできない。
矮小な例え話で申し訳ないが、自分の体験で言うと「凄い先生に出会ってしまった。出会ってしまったからには、もう今までの自分でいられないし、いちゃだめだ」と思ったのに似ている。
もうひとつ書いておこう。「彼ら(←難民のことを指している)は俺だ」の項に書いてある。
「そこで俺はさらに気づいたのだった」「彼ら難民が俺たちとなんの違いもないことに」「明日、俺が彼らのようになっても不思議ではないのだ」「だからこそ、MSFのスタッフは彼らを大切にするのだとわかった気がした。スタッフの持つ『敬意』は『たまたま彼らだった私』の苦難へ頭を垂れる態度だったのである」
「なるほどそれは『たまたま彼らだった私』への想像なのだった。上から下へ与えるようなものではない。きわめて水平的に、まるで他者を自己として見るような態度だ」「それは心の自己免疫疾患かもしれなかった。他人を自分としてとらえ、自分を他人としてしまうのだから」「けれどその思考は病いではないはずだった」「むしろ『たまたま彼らだった私』と『たまたま私であった彼ら』という観点こそが、人間という集団をここまで生かしてきたのだ」「時間と空間さえずれていれば、難民は俺であり、俺は難民なのだった」
いとうせいこうだからこそ、「きわめて水平的に」見る力を備えているのだ、だからこそこんなことが言えるんだと力を込めて叫びたいところだが、そうすると、自分への言い訳になってしまう。どんな年齢であろうとも、そしてどんな立場であろうとも、人はいとうせいこう的視点を持たなくてはならない。
一方で、と僕は不吉なことを考えてしまう。「難民じゃない方」に僕は加担しているのではないか?と。つまり弾圧や差別などによって難民を生み出す側だとしたら、と考えてしまう自分もいる。そんなつもりはないんだ、というのは通用しない。知らないことは罪だ。だからこそ、怖いし、もっと勉強せねば、と思う。
のほほんと暮らしていようが、精神疾患で辛かろうが、この本に触れたからには、今までのようにはいかないな、と思っている。
とにかく、いとうせいこうの物事を見る力というか見方に対する凄味を感じることができた本だった。
しかしながら、である。いとうせいこうは「国境なき医師団」を「見に行った」のだ。そのスタンスを僕も忘れてはいけない。じゃないと窒息してしまう。