hanami1294のブログ

現在休職中の小学校教員のつぶやきです(只今復職中)。

言葉にできない「瑞々しさ」パート1~映画編~

どの作品かは忘れたが、スペンサーシリーズの中でスーザンは、スペンサーとホークに次のようなことを尋ね、スペンサーはこのように答えている。

 

スーザン:「あなた達は言葉でこうしようという風に打合せなどしないで、自然に振舞っている。そこが分からないというか理解できない。なぜあんな(緊張した)場面でああいう風に振舞えるの?」

 

スペンサー:「俺たちは、どのように振舞うのかを知っている。説明する必要もない。だから君に説明しろと求められたら、あの場面を見てくれ、それが俺達が考えていることなんだ、という風に答えるしかない。」

 

スーザン:「だ~か~ら~!分からないって!!」

ってな感じで言い返す。

 

 

授業でも似たようなことがある。何故あんな授業ができるのか問われることがたまにあるが、上手く答えられない。「いやあ、見て判断してください」としか言えない。

 

「瑞々しい」という言葉もそうである(←かなり無理矢理こじつけてる)。どこがどうなって「瑞々しい」と感じるのか。これを観てくれ、聴いてくれとしか言えない。今日はその映画編だ。

 

それは、「旅立ちの時(Running on Empty)」(1988)である。

 

政治犯である両親と弟で身を隠しながら生きてきた主人公のダニー(リヴァー・フェニックス)は、ある町に身を隠すことになる。そして高校で出会った女子学生ローナ(マーサ・プリンプトン)と恋に落ちる。しかし、秘密を持ち続けたまま付き合うことに苦しさを感じたダニーは、彼女に自分の身の上を全部打ち明けてしまう。「このままこれからもそうやって生きていくの?私を置いて。」と詰め寄るローナ。そして・・・

という映画なのだが、

 

本と同様、映画も気に入った所を繰り返して観る派の僕も、この映画だけは全編が見どころである。どの場面を切り取っても2人の瑞々しさに眩しさを覚える。だから最初から最後まで観ることになる。

 

この映画でのリヴァー・フェニックス、マーサ・プリンプトンの演技のことを「瑞々しい」というのだ。やはり言葉では表せない。