hanami1294のブログ

現在休職中の小学校教員のつぶやきです(只今復職中)。

冬眠日記その24 ~早くジョニ・ミッチェルに馴染みたい~

只今午前3時。音楽がスコンスコン入るチャンスタイムだ。今日はジョニ・ミッチェルの「ブルー」(1971)を聴いてみよう。彼女の曲で繰り返し聴くのは「コヨーテ」だけだ。初期のアルバムは昔々CDを借りて一瞬いいな、と思ったがそれっきりだった。今日は数回目のチャレンジである。

 

まず一聴してこれらの曲は、カヴァーするのは難しいだろうな、と思った。確かトリビュート・アルバムが出ていると思うが、どうなんだろう。もしカヴァーするとしたら、歌い手に寄せたありきたりのメロディにアレンジせざるを得ないような気がする。それほど彼女のメロディは独特だ。そしてこの声。これはクセになるな。ずっと聴いているとこれしか聴きたくない、と思わされる声である。後に彼女はジャズに接近するが、このアルバムも僕にとってはある意味でジャズ的だと感じた。何だか知らないがフリーな感じが。

 

しかしながら、一体このメロディはどこから湧き出てくるのだろうか。ジョージ・ハリスンにも同じようなことを感じるが、聴き手がこう来るかな、と思うところを外しっぱなしだ。つまり簡単には歌えない。そういう意味ではジョニ・ミッチェルは分かりにくいアーティストなのかもしれない。分かりにくいから「天才」とか言ってすませちゃうんだな、きっと。

 

 

と書きながらも「ブルー」は「史上最高のアルバムとしてよく引き合いに出されており、『ローリング。ストーンの選ぶオールタイム・ベストアルバム500』のリストでこれまでに作成された30番目に優れたアルバムと評価されている」(ウィキより抜粋)として位置づけられている。

 

10曲36分。理想的だ。でも繰り返すけど、世の中の人はこの作品を喜んで聴いていたのだろうか。高尚な音楽としてありがたく奉っていたのではないだろうか。一聴してもその良さは分からないぞ。流しっぱなしにしてもちっとも耳に残らない。いい意味で聴き手に聴く耳を持たせる音楽だし、それまで聴いていた自分の耳を「更新しなさい」と迫ってくる。

 

ジョニ・ミッチェル恋多き女性としても知られている。ここからは邪推だが、男たちの側から見ると、彼女のあまりにも巨大な才能に羨望の念を抱き、惚れちゃったのではないだろうか。そして自分の持つ最大限の音楽的才能を捧げちゃったりするのだ。それをジョニはちゃっかりとしっかり吸収して、もうこの男には用はないと思ったらポイと捨てちゃうのだ。そして次の新しい才能を(無意識に)探す。こうやって彼女の華麗な男性遍歴が繰り広げられたのではないだろうか。まあ、よくある邪推である。こんなこと考える僕の方はまったくの俗物である。

 

今のところ3,4回聴いているが、まだ僕の耳はジョニ・ミッチェルの音楽に馴染んでいない。

 

以上、ジョニ・ミッチェルでした。さあて次はどうしようかな。

 

 

 

 

自分の最も古い記憶は何だろうか。と書くとまるでエッセイストのようだ。しかしそのまま小さい頃の記憶について書いてみよう。

 

僕の家は自転車屋だった(何度も書いている)。1階は道路側に店があって、その奥が居間、母の仕事場(着物を縫っていた。いわゆる内職ですな)、台所といった間取りだったと思う。2階は父母の寝室、僕と姉の寝室、自転車用の物置、だったように思う。その店の中で僕が大泣きしている場面がどうも僕の一番古い記憶ではないかと思われる。階段から落ちたか、自転車の部品で傷ついたかで足が痛くて泣いている光景は今でもはっきり覚えている。幼稚園には行っていない頃だ。傷は今でも残っている。

 

それからいろいろなことを覚えているが、店を拡張した時のこともよく覚えている。居間をつぶして店にする、そして母の仕事場だった部屋(6畳くらいかな)を居間にすることになった。いよいよ今まで居間だった場所の床を剥がして明日から本格的に工事だ、という日にかつて居間だったところで夕食を摂った場面もよく覚えている。

 

その日は日曜日だった。そして鍋料理だったように思う。地面がむき出しになっていたのでキャンプみたいで楽しかった。僕が何故その日をよく覚えているかというと、19時から「マジンガーZ」の第1回目が放映されたからである。あの番組の内容(当時としては衝撃的だった。凄いモノを観た~って感じだった)、今の店の状況等が入り混じって、新しいことが始まる予感で満ちていた。調べてみたら第1回目は1972年12月3日に放送されていた。なるほど。冬だったのか。僕はマジンガーZの「ブレストファイヤー」と「ルストハリケーン」が好きだった。(←分かる?)

 

それはいいんだが、店を拡張して以来、当然居間が手狭になった。もうかなり、というくらい狭い部屋で僕達4人家族は食事を摂ったり、テレビを観たりしていた。再び店を居住スペースに戻したのは、僕が働き出してからのことだった。だから僕はいわゆる普通の家に憧れていたし、自分の家に友だちを呼ぶことも長い間しなかった。これも前に書いたが、いつまで経っても風呂がなかったし、トイレが水洗になったのだって、僕が働き出してからのことだ。

 

じゃあ貧しかったのかというと、そうでもないような気がする。自転車は高度成長期に乗っかってバンバン売れているようだった。それに僕たちはよく旅行に連れていってもらった。一番覚えている旅は、オンボロ車を借りて、夜に出発して静岡県まで行ったことだ。普段とは違う行動に僕は姉と2人ではしゃいでいた。やがて眠りに就いて、目覚めるともう静岡県だった。

 

そして富士急ハイランドに行ったことを覚えている。しかし何に乗ったのかは全然記憶にない。僕が覚えているのは当時珍しかったトランポリンに飽きもせず長時間興じたことだ。その日はテントを張って寝たのだが、眠る前に隣でキャンプしている人たちに誘われて楽しいひと時を過ごしたことも思い出したぞ。

 

こんな風にどうも僕の父母(主に父が)は、いろいろな所に行くのが好きだったみたいだ。それにお金を使っていたのだろう。

 

しかし、「うちって貧乏なのかな」と思った時が1回ある。それは、高校時代の冬になると決まって父がアルバイトをしているのを知った時だ。「きっと学費を稼いでいるんだ」と申し訳なく思った。もしかして成績が少しずつ上がっていったのはそのせいかもしれない。いや、そこまで親孝行ではないか。

 

幼稚園時代から高校時代までいっちゃったよ。まあ、こうして書き留めておくのも悪くはないか。

 

 

さあ、この記事をアップしたらギタ練するぞ。