hanami1294のブログ

現在休職中の小学校教員のつぶやきです(只今復職中)。

秋眠日記19 ~サカグチ先生語録の巻~

昨日、恩師のサカグチ先生と会った。会って1分後には教育の話を始め、3時間半ぶっ通しで話し続けた。いろいろなことを聞き過ぎて、まだ頭がパンパンではあるが、メモしたことをそのまま書いてみよう(僕はサカグチ先生と会う時はメモ帳とペンを持っていくのだ)。ちょっと不親切な文章になるが、できるだけサカグチ先生の凄さが伝わるように努力してみよう。

 

 

その1:作品を作ることが言語活動ではない。

 

目的のない言語活動が多すぎる。それでは単元の学習内容が一貫していないことになる。最後に〇〇(例えばリーフレットやパンフレット)を作る。〇〇を作るためにこの勉強をするという意味を考えなければいけない。そしてその教材文を読んで獲得した学びを使って言語活動をすることこそ繋がりがある学習であろう。多くの場合教材文と作品とは別、という風に前段の学びと後半の作品づくりは別のものになっている。

 

つまり、今まで学んできたこととかけ離れているものを作らせている。そうじゃなくて教材文の論理の展開を学んだのならそれを使って作品をつくるのが筋であろう。

 

それに加えて、先生がお手本として作品を見せるなんて最悪である。見せたら児童は真似をするだけ。大村はまは、作文の書きだしを教えるために20通りの例を出し、「参考になったら使って」と言った。例を出すならこれくらいやらないとだめ。1通りの文章だと児童は先生の文体に合わせて書いているだけになる

 

まとめ:言語活動を充実させるには、読みを充実させなければいけない。

 

 

 

 

その2:発問と発話は違う。発問が多いと分かりにくい授業になる。

 

発話というのは、児童の言葉を価値づける教師の言葉。児童が発言した後、「Aさんはこう言っていたんだね。みんなはどう思う?」という言葉も発話。そうやって全員を巻き込んでいく(参加させる)のが授業である。ところが多くの先生はAさんの発言が自分の思惑通りの言葉だったら、そのまま「そうだねー」と言って次に進む。つまり、手を挙げている人だけで授業をしている。みんなのものにするというひと手間がない。ということはそもそも授業に対する考え方自体が違うということである。

 

前述のような発話は最初は先生がする場面の方が多いが、だんだん児童の方から言うようになる。そして児童の発する問いが連続して授業が進むようになる。これこそが主体的な授業というものだろう。ところがそうなると先生は(自分が)心配になってひとつひとつの発言を確かめるようになる。つまり発問が多くなる。発問が多いと授業が1問1答になって、児童は受け身になる。また先生が問う→誰かが答える→先生が問う→誰かが答える、の連続になって児童は全体像(今何を勉強しているのか)が見えにくくなる。

 

まとめ:発問を減らそう!それだけで授業は変わっていく。

 

 

 

 

その3:人に授業を見せる時、どういうスタンスでしているの?褒めてほしいの?

 

学校研究で学校をつくるという発想がない。貴方の学校の研究テーマは何?とかどんな研究をしているの?と聞かれて答えられない人が多い。日頃から学校研究を意識して授業に取り組んでいない証左である。研究授業というのは日々学校研究のテーマを意識して取り組んできて、それを問うものである。

 

私(サカグチ先生)は研究授業を行った際、色々な事(こうするべきだったのは?とかこの関わり方は妥当であったのか?)を言われて育った。それを言われて嫌な気持ちになったことはない。研究とか研修ってよりよいものを出し合って深めるものでしょ?でも最近は違う。何か否定的なことを言うと授業者は面白くない顔をする。児童に主体的に学習に取り組んでほしいと言いながら、面白くない顔をするのは、結局何を一番に考えているかと言うと「自分が一番」なんだと思う。

 

児童のことを一番に考えると、つまり児童主体の授業を考えるとなると児童からいろいろな意見が出てくることが予想される。でもそれに自分(授業者)は対応できない。それが怖いから結局自分の考えたレールに乗っかるように授業をしている。これは児童を一番に考えて授業をしているんじゃなくて自分を一番に考えて授業をしているからである。

 

まとめ:「はっきりしていないことをはっきりさせる授業」をする経験を先生がしてきていない。だから児童主体の授業が生まれない。

 

児童がいろいろ言うようになってきたな、育ってきたな、というところまでは指導主事等の指導助言によって到達できる人はいる。でもそこから先は先生自身が変わらなかったらそれ以上児童は伸びない。そのことに気付かない先生が多い。

 

 

 

その4:hanami「最近授業に情熱を持って取り組むことができないんですよ」サカグチ先生「社会科にやりがいを持っていないんじゃない?」といつものように即答された。

 

社会科はダイナミックに授業を展開できる教科だと思う。教科書に書いてある知識はどうせ中学でも学習することなんだから、小学校でしかできない授業にしたら?

 

例えば「3人の武将」の学習で、3人(織田信長豊臣秀吉徳川家康)のことを年表で一通り流れをつかんでから、「3人の武将の中で誰が天下統一に貢献したと思う?」という問いをすれば、自分で調べて自分の解釈を作ることができるんじゃない?私は歴史って解釈だと思うのよ。だから歴史の学習の最初は源義経の話をして、色々な説が今もある、つまり解釈をしているという話をするの。そうやって学習を進めるのも一つの手かもしれない。でも、それは担任だったからできたのかもしれないわね。国語でもそういう授業をしてきたから、児童にとってもやりやすかったと思う。

 

 

その5:人間は言葉で思考する。

 

 

指導要領には「この10年で読み取りの力は落ちた」とはっきり書いてある。それなのに読む力を育てようとしない。言葉を学ばなかったら、思考力は育たない。

 

ある小学校に行った時、教材研究の仕方が全然違うなと思った。本来なら、自分で教材文を読んでこう読み取った、そして今の児童の力はこうだ、学習指導要領に照らし合わせるとこうだ、この3点を考えて指導案を立てるべきなのに、こういう話し合いをしないで、ただ心情を読み取る、と指導案に書いている。ただ「悲しいと思った」「さびしいと思った」だけじゃあ意味がない。心情を読み取らせたいならもっと心情を読み取らざるを得ないような手立てを考えるべき。

 

 

 

以上とっちらかった文章であり、突っ込みどころ満載ではあるが、こんなことを3時間半ずっと話していました。世間話は10分くらいだったなあ。幸せな時間だった。自分も頑張ろうと思うことができた。