只今午前10時15分。まだドジャースの試合は続いている。しかし僕はこの間に、服の断捨離を決行し、リビングと寝室の部屋の整頓をし(いつものように移動という名の整頓だ)、シャワーをして洗濯をしている。妻の帰宅は13時頃なのでまだ数時間余裕がある。素晴らしい一日の始まりである。この調子でいきたいものである。
ドジャースの試合は大差がついたのでもう見る必要はない。だからもう少ししたら接骨院に行こうと思う。そして忘れてはならないのがケーキだ。結婚記念日の僕の仕事である。調べてみると32回目だった。めでたいことだ。
もうすぐ13時である。無事接骨院に行って、ケーキを買うことができた。それにしても腰を揉んでもらうってなんて気持ちがいいのだろう。前にも書いたが、もういつまででも揉んでいてください!とお願いしたくなってしまう。これで380円だからお安いものだ。だからと言って家に戻ったら、痛みが引いているというわけではないんだけどね。
というわけで読解力だ。以前恩師のサカグチ先生には「(現行の)学習指導要領の最初にはハッキリと『読解力は落ちている』って書いてあるんやよ」と言われたことがある。その時の僕は「読解力かぁ。国語の説明文の授業が大事になって来るのかなぁ」くらいに思っていた。
その後「算数の問題文って短いけれどもある種の読解力が必要だよなぁ」と思うようになる。とは言え、具体的にどういう力なのかと問われたら「文章を正確に読み取ることができる力?かなぁ・・・」とションボリとなり、適当なことしか言えなかったのが正直なところだった。
しかし、最近「アレクサンドラ構文」というのを知ってるか?というニュースを見つけ、興味深く読んだ。まずは「アレクサンドラ構文」とやらを紹介しよう。
「Alexは男性にも女性にも使われる名前で、女性の名Alexandraの愛称であるが、男性の名Alexanderの愛称でもある」
問:この文脈において、「Alexandraの愛称は( )である」の空欄に当てはまる最も適当なものを下の選択肢の中から一つ選びなさい。
(1)Alex (2)Alexander (3)男性 (4)女性
どう?一応僕は正解した。ホッとしたよ。
この「アレクサンドラ構文」とは、国立情報学研究所の新井紀子が考案した、日本語の読解力を測定するためのリーディングスキルテストに含まれる問題の構文を指した言葉である(ウィキより)。
もう少し引用させてもらおうか。
「一見すると簡単そうだが、新井の調査によれば、公立中学生の正答率は38%にとどまる」「文中の単語の意味は理解できても、それが文章になると理解できなくなる現象は機能的非識字と呼ばれる」
じゃあなんでこんなに正答率が低いのかという理由も書いてある。
「一部の進学塾では現代文の受験テクニックとして『問題文の中から同じことを書いてある一文を探しなさい』と教えられており、正答率の低さはその弊害でもある」「アレクサンドラ構文の文章題に『女性の名Alexandraの愛称である』という一文があるため、『女性』と答えてしまう」らしい。
「問題文の中から同じことを書いてある一文を探せ」という技は、小学1年生の時から求められている。国語のテストの表は、読解力を試す問題なのだが、答えは必ず問題文の中に書いてある。よって平均点は非常に高い。だからこの点数で学期の成績をつけるなんてことはできなかった。平均95点以上の児童なんていくらでもいるからね。何故テスト業者は、こんな誰にでも分かる問題しか作らないのかという疑問は長年持っていた。
今はすこ~しだけ変わって、自分の言葉で表現することを求める問題が最後に一問だけある。しかしその一問だけをもってして評価するというのもナンセンスである。だから読解力の評価というのは、かなり教師の主観が入ったものになっている側面はあったと思う。今でも主観強めで評価している教師は多いと思う。
だからこのニュースを読んだ時には、「なるほど、具体的で分かりやすいな」と思った。一応「アミラーゼ構文」というのもあったから、試みたがこれは難しかった。1分くらいは悩んだな(正解だった)。
このように「文章を『正確に』読む技術」を高めるべく、いろんなところで活動しているのが新井紀子氏である。こういうのは妻に聞くに限る。
「なあ、『アレクサンドラ構文』って知っとる?」と聞くと、分からないというので説明して、彼女が正解を言うかドキドキして待っていた。僕よりも時間をかけて彼女は正解を言った。そして新井紀子の名を言うと「ああー、新井紀子ね。うちに本あると思うわ」と答えた。やっぱりな。ホントに何でも知ってる女性だな。
僕は速攻でAmazonで「新井紀子の読解力トレーニング」という本を注文していた。YouTubeで彼女の動画も見た。本は小学生から大人まで読むことができる形式だ。最初は「教科書をさっと開けるかな?」から始まり「筆記用具をチェックしよう」「自学自習で視写をしよう」と続く。どうやらまずはここから始めろ、ということらしい。
「視写」というのは、教科書(或いは黒板)に書いてある文章をノートに書き写すことだ。僕の小学生時代からあったし、教員になってからも児童に取り組ませていた。僕としては、文章の内容を読み取るための手段のひとつであると捉えていた。それは新井氏も同じだが、より具体的に示している。
視写ノートの作り方、書き方、取り組み方を事細かに書いてあったし、一文字ずつではなくて文節ごとに見て書くことの大切さ、「は」と「が」の違いを感じながら書くことの大切さなどを説いていた。
具体的であるのはいいが、これを小学校で取り組むとなったらやはり担任一人の判断では難しいだろう。複数クラスがある学年ならやれるかもしれない。でもやるとなったら学校全体で取り組むのが一番効果的だと思う。
これだけ大々的に扱われるようになると、この考えに対する意見というか文句というかそういうのもある。例えば「これは『読解力』の問題というより『悪文耐性テスト』である」(umisioさんのnoteからの引用させていただきました)とかね。「『日本人は読解力不足の生で、生活するうえでいろいろ困難なことが起きている』って言うけど、そんなの起きてないって」とかね。
「読解力って何だ?」というタイトルを付けた割には、全然それに迫ってないな。でもこの本を最後まで読んで、それでどう思ったかをいつか書くことにしよう(←逃げている)。
だって今から夕ご飯作って楽譜を書いて、結婚記念日を祝わなきゃいけないんだよ。大変なんだよ。
それにつけても、こんなちっちゃなケーキが1こ500円以上するってなっても「ふうん」としか思わない僕は、物価に対する感覚が麻痺しているとしか言えない。絶対おかしいよね、今の物価。でもこれから安くなるという期待は、国民にはないだろうな。僕にもない。

それでは。