新しく赴任したA先生(僕と同年代で教師としての力量がある人)に、「hanami先生は、どうしてこんな(雑な)列の並び方をしているのに指導せんの?」と問い詰められた。僕は、「○○先生(この地域で名を轟かせている偉大な先生。僕はああいう先生になりたいと思っている)を見てよ。あの人が今日の時点で『きちんと列を並ばせること』を優先順位の上位に考えていると思う?」と返した。その言葉にA先生は納得した。そこから、先生としていろいろな場面に遭遇し、僕なりに対応してきた。
これが昨晩見た夢である。長かった。半覚醒状態になった僕は、「なんでいつまでも教育ネタの夢を見るんだ?『三つ子の魂百まで』なのか?」と思った。そして午前5時に比較的すっきりと目覚めた。まあいつも見てる夢なんだけど、あまりにも鮮やかだったもんでこうしてまた書いてみた。
朝起きてすぐに、格言の意味を調べた。「三つ子の魂百まで」とは、幼い頃に形成された性格や気質は、年を取っても変わらないという意味だった。どうやら科学的根拠もあるらしい。しかし、僕の場合は大人になって仕事に就いてからのことである。だからこのことわざには当てはまらない。でも言わんとすることは分かるでしょ?きっと多くの退職者たちは、今も仕事の夢を見ているはずだ。
というわけで、新年度最初の記事は、教育関係になりそうである。とほほ。
その前に、妻のことを書いておこう。
妻は、昨日17時30分頃に一旦帰宅してからすぐにまた学校に戻り、帰ってきたのは20時にもなろうとする頃だった。おいおい、いくらなんでも明日から新年度なんだから残っている先生たちに失礼だろ、と思ったが、(先生たちは)まあこんなことするのも最後だしな、しゃあないかって許してくれるかもしれないとも思った。
それでも僕は「いくらなんでも遅すぎるって。他の先生らは、嫌な気分になっとると思うぞ」と言った。妻は「私も帰りたかってん。でも、保護者やら市議会議員さんやら町の会長とか野球部の顧問の先生とか、とにかくいろんな人が挨拶に来たんや」と答えた。そうか、ならしょうがないか。
「きっと、前からそういうことしとったんやろうなー」
「そう思う。うちの校下は『ねんごろ』ねんて」
この場合の「ねんごろ」と言うのは、大雑把に言うと「非常に丁寧」という意味の方言である。この後、今日の朝から夕方までに起きたことを「ねんごろ」に僕に話してくれた。僕は、さり気なく「ところで明日からどう動くのか?」という事案をぶっこんでおいた。妻は、ひとしきり話を終えると紙に書いてくれた。
月:休み
火:16時40分まで勤務
水:12時15分まで勤務
木:休み
金:16時40分まで
このスケジュールを見た僕の悲しみは伝わるだろうか。もちろん何回も書いているが妻のことを憎んでいるわけではない。しかし、と思い「明日は13時前に『家』に帰って来るんだよね?」と言ってみると「他に帰るとこある?」と言われてしまった。因みに今度妻が赴任する学校は今までで一番近いところにある(10分くらいで行ける)
1週間に妻は4日休みということになる。くどいようだが僕の戸惑いをご理解いただけるだろうか。しかし考えてみると、今期僕が学習支援員をしなかったことはラッキーだったと言えよう。もし支援員になっていたら僕の自由時間はもっと削られる。これからは気を張って生きていかなければいけない。世の中は変わったのだ(←自分に言い聞かせている)。
おっと、昨晩のことをもう少し書いておこう。妻が帰る前に急に胃が痛くなった。こりゃいかん、何か腹の中にいれなければと思い、冷蔵庫を見るとキムチが入っている。しょうがないのでご飯とキムチ(胃に優しくないなと思いながら)を食べてその場を凌いだ。そして妻と夕食を食べ、スッと眠りに就いた。
すると突然吐き気に襲われ、ダッシュしてトイレに行った。唾を吐くと真っ赤だった。これはどう見ても血だ。そう思いしばらく待つと再び吐き気がやって来てゲボッて吐くと赤くはなかった。きっとあれはキムチの色だったのだろう(そう思いたい)。胃が痛い時にキムチを食べるなんて無茶だよねという話でした。
今午前6時だが、もう既に妻は起きている。妻の話も聞きつつ記事を書く。これからはそういうことも増えていくのだろう。
今日の教育ネタは、「『学びに向かう力』評定加味 次期指導要領で具体案、文科省」というニュースを採り上げてみよう。
“次期学習指導要領を議論する中教審の特別部会が30日開かれ、文部科学省は児童生徒に成績を付ける際の具体案を示した”
“評価項目は「知識・技能」と「思考・判断・表現」の二つで、思考・判断・表現には「学びに向かう力」の要素を加味し、「評定」の際に考慮するとした”
“現在は(1)知識・技能(2)思考・判断・表現(3)主体的に学習に取り組む態度の三つの項目をそれぞれ「A・B・C」で評価していた・・・”
昨年の夏には、(3)の主体的に学習に取り組む態度というのは、評価が難しいということでしない。つまり(1)と(2)の2観点で評価する、ということになっていた。僕はこのニュースに対し、「いいじゃんいいじゃん、曖昧なところがなくなってスッキリするよ。いやー今まで悩んできた人、よかったね」と書いた。
ところが文科省というか有識者の中にはどうしても「主体的に」みたいな観点を入れたい人がいるらしい。だから「学びに向かう力」というもっともらしい言葉で「思考・判断・表現」の観点に紛れ込ませようとしている。
ペーパーテストは、(1)と(2)を問うものがほとんどである。もしペーパーテストの点数だけで評価するとしたら教科によっては可能である。小学校算数なんかは、点数でハッキリと区切れば保護者に説明できる。それなのにまた(2)にややこしい要素を入れようとするなんてどうかしてる。現場の先生はプンプンしているだろう。
ここで言う「ややこしい」とは、評価をするのが難しいということである。ハッキリ言って主観的にならざるを得ない。だから今まで(3)の主体的に学習に取り組む態度ってどうなん?って多くの教員が散々悩んできたんじゃないか。
最近ニュースに対するコメントを引用することが多いが、今回も少しだけ引用させてもらおう。
“この学びに向かう力というのは、どうやって評価するの?挙手や発言の数ではないというし、挙手発言しなくてもじっくり考えている子はたくさんいる。挙手発言は積極的でも条件反射みたいな子も大勢いる。振り返りだったら、作文力がある子が評価される。そもそも思考とか判断とかもあいまい”
“一番大事なことは、生徒と保護者に理解、納得してもらうことだ。教員が分からないものを生徒、保護者にどう説明、理解、納得してもらうのか。こうだから、こうなります、だけじゃ今の時代だめなのよ。相手に分かってもらわないと。透明性、説明責任が問われる。しかも説明しただけじゃだめなの。誰にでも分かってもらえる客観性がないと”
“「学ぶ力」がなくても「学びに向かう力」があれば評価されるのか。要するに、学力がついていなくても、学力をつけようと努力さえすれば評価されるということだが、それは違う。全て結果(学力)で評価しなければならない。それが社会だ”
要するに、評価の仕方が分からない、曖昧だというのが多くの人が言っていることだ。最後のコメントは、「学びに向かう力」でよいのか?それは違うでしょと言っている。
問題は、文科省が下した決定に対して真面目に受け取る教師がいることだ。教育委員会とかは研修をさせるし、学校長とか教頭とか教務主任とかは「『学びに向かう力』っていうのはね・・・」と小難しい理屈を言って、担任に評価させようとする。そういう小難しい理屈は大体において全員が共有されるものではないし、やろうと試みたら途方もない仕事量が待っている。
つまり、教委や管理職も真面目なら、そのことを真に受けて評価しようとする担任も真面目であるということだ。もしかしたら若い人はスルーするかもしれない。僕はそれでいいと思っている。ただ、スルーしてどうやって逃げ切るのかはちゃんと考えておけよとは言いたい。
妻は今日12時15分で上がりだったが、帰ってきたのは15時近くだった。僕に気を遣ってくれたようだ。明日はお休みだ。どう動くのかな。手探りの4月が始まった。
それでは。そういえば、新機能のナナメ読みってなんだ?必要なのか?