教員には仕事に対して何も疑問を抱かずに仕事ができる人と、常に疑問を抱きながら仕事をせざるを得ない人がいると思う。自分は後者である。後者は自分だけだったりして。
先生という仕事は毎日毎日、瞬間瞬間判断し、目の前にいる児童に答えることを迫られている。児童は常に疑問を持ち、今答えて、と僕に求める。もちろん僕はその時その時瞬間的に判断して児童に答えている。でもいつでも消化不良だ。今の答え方でよかったのだろうか?もっと他の選択肢を提示すればよかったのか?とか考えてしまう。
こんな風にちょっとしたことでも「?」が付いてまわる。でもこれが僕が選んだ道なのだと納得もしている。最後まで「?」を感じながら仕事をする。それでいいじゃないか。
(体か心の)具合の悪い児童になんて声をかければいいのだ?なんで「あいさつ運動」なんてものをしなくちゃいけないんだ?授業って一体全体どうあればいいんだ?社会科の授業で身につけるべきことをホントにお前は知っているのか?なんで人は勉強しなくちゃいけないんだ?などなど大きなことから小さなことまで僕に確たる答えを持っているわけではない。
ということは常に小さなストレスを抱えながら仕事をしていることになる。疑問を持たずに仕事をしている人にしたらなんでこんなことでストレスを感じちゃってるの、なんて思われているかもしれない。
でも最近疑問を持たずに仕事をしているなーと感じる人の中には、「ホントにこれでいいのかい?」と思う言動がしばしば見られる。例えば研究授業なんかをみて、「うん?これを深まったというのか?」と思うことが多くなった。それは授業を見てもその後の授業整理会のやり取りを聞いてもそう思う。ところが僕ときたら代案を出すわけでもなく、ただ悶々としているだけである。これはあれである。昨日のイマジン案件と同じだ。
「イマジン」に対する世間の評判に嫌悪を抱きつつも、どうしてそうなのかをちゃんと言えない、調べようともしない。それとおんなじだな。仕事ができる人は疑問を感じたら抱え込まないですぐに解決に向かう。そしてほんとに解決しちゃう。だから悶々としないし、もしかしたら気持ちよく仕事をしているのかもしれない。
だからといって僕が少しずつ「仕事ができる人」方面の人間になるはずもないし、これからも「〇〇はこうだ!」とか「ハッキリ分かった!」みたいな確信に至ることはないだろう。繰り返すがそれはそれでいいかな、僕はそういう道を選んだのだな、と思っている。難しいことは誰かに任せてしまおう。僕はその答えを持っている人を見つける努力をし続けよう。そしてなるべくその人には嫌われないようにしよう。
まあ、このブログでうだうだ書いていることのほとんどは「多分・・・」とか「〇〇な感じかな」みたいな調子なので、教員という仕事がどうというより僕という人間がそういう人間なのだろう。
何だかしんみりしちゃった。いかんいかん。今日のニュースは大谷選手、ホームラン王確定!である。素晴らしいことだ。日本中のファンが喜んでるよ。
それと昨夜からマリア・マルダ―のデビューアルバムを繰り返し聴いている。これからの季節にピッタリのアルバムである。僕の耳がジャズに少し馴染んだせいか、ジャズ風味の曲に心惹かれた。これは繰り返し聴きたいし、いつか記事にもしたい。
今日は鍋(味噌味)にするぞ!