hanami1294のブログ

現在休職中の小学校教員のつぶやきです(只今復職中)。

リザード・キングは夜の活動に専念するべきだった

昨日はジョン・レノンなんていう超大物を覚悟もなく書いて大失敗したというのに、今日のテーマはジム・モリソンだ。どうなるかな。どうせ大した覚悟もなく書くんだから、ちょっとセンセーショナルにいってみるかと思い、こんなタイトルにしてみた。

 

今日は手を組んで座椅子に寄りかかってザ・ドアーズの「ソフト・パレード」と「モリソン・ホテル」を聴いてみた。そして思った。これはザ・ドアーズの昼の活動を記録したアルバムだと。ジムの顔やいで立ちがはっきり見えてしまう。どんな目をしていてどんな髪形でどんな手でマイクを持ちどんな風に歌っててどれだけ酔っぱらっているかが。決して貶して言ってるんじゃないんだけどね。

 

僕はこの2枚のアルバムに収録されている「タッチ・ミー」や「ロードハウス・ブルース」や「ウェイティング・フォー・ザ・サン」や「インディアン・サマー」が大好きだ。大好きだけど、あくまでもこれは昼の活動なのだ。昼にへべれけになって歌っているジム・モリソンなのだ。

 

こういうのをかっこいいという人もいると思うんだけど、彼のホントの姿は夜になってこそ分かるのだ。どんな目でどんな髪でどんな手でマイクを持っているかがよく分からない方がホントのジム・モリソンなのだ。

 

 

ちょっと説明しておこう。1枚目「ザ・ドアーズ」2枚目「ストレンジ・デイズ」3枚目「ウェイティング・フォー・ザ・サン」は夜の活動としてのザ・ドアーズというかジム・モリソンであって、4枚目「ソフト・パレード」5枚目「モリソン・ホテル」は昼の活動としてのザ・ドアーズというかジム・モリソンなのだ。

 

 

どちらが優れているのかと問われればしようがない、夜の活動の方だと答えるだろう。でもね、人間夜だけじゃ生きていけないんだよ。あ、ジムはリザード・キングだから人間じゃないのか。いや、ジムだって人間だったのだ、結局は。そんな彼が日中は地下世界に潜り、夜になるともぞもぞと蠢き出し、リザード・キングとなって歌いだす。そこにマジックが起こった。だからこそ3枚の奇跡のアルバムが生まれたんだ、きっと。

 

試しに1~3枚目を夜と昼で聴き比べてみろよ、全然違うでしょ?4枚目5枚目を夜に聴いてみろよ、全然ピンと来ないでしょ?と僕は声を大にして言いたい。

 

タイトルで「夜に専念すべきだった」と書いたが、人間にそれは無理なことだ。だからジムは(バンドは)昼の活動もした。その結果ヒット曲も生まれた。それでいいじゃないか、とも思うのだが、それだけじゃダメだったのだ。ジムは夜に生きたい生き物だったから。

 

「ソフト・パレード」の最後は「ジ・エンド」や「音楽が終わった時に」の様に長尺な楽曲に挑んでいる。最初のジムのアジテートは昼に必死に夜の自分を出そうとあがいているようにも聴こえる。そんなことしたら謎が謎じゃなくなるのに。やればやるほど、ジムの素の姿が露わになる。

 

 

繰り返すが、僕は昼のザ・ドアーズも好きである。何といっても今まで見えなかったものが見えるんだから。そうか、こういう顔をしていたんだ、こうやって歌うんだ、ロックしてるなーとかね。でもね、やはり夜にザ・ドアーズを聴くと思うんだよね。これだよな、ジム・モリソンの本来の姿はってね。なんでだろ?

 

謎は謎のままでよかった。そうすればあの透明感は失われることはなかったんだ。でも人間である以上、そういうわけにはいかない。リザード・キングであり続けることは無理なんだよ。いつかは引き摺り降ろされる日が来るんだよ。

 

そしてジムは実際に現実社会で袋叩きに合い、リザード・キングの座を降りた。復活(詩作に専念)しようとした彼は結局パリのアパートのバスタブの中で死んでしまった。

 

でも考えてみれば凄いことだよな。人間じゃないモノになって3枚もアルバムを発表したんだから。それが60年以上経ってもずっと透明のままあり続けているんだから。

 

深夜に3枚のアルバムを聴くのは怖い。でもだからこそザ・ドアーズの3枚のアルバムを深夜に聴くべきなのだ。

 

 

ちょっと思い入れが強すぎたかな。抽象的な文章でごめんね。それにラストアルバムについては書くことができなかったな。