hanami1294のブログ

現在休職中の小学校教員のつぶやきです(只今復職中)。

オーソドックスからはみ出そうとした音

以前僕はグレン・グールドのラストアルバム「ゴルドベルク変奏曲」は確信に満ちた音を奏でている、ギドン・クレーメルのヴァイオリン、レッド・ツェッペリンの音楽にも同様のことを感じる、しかしなぜそう聴こえるのか分からない、という趣旨の記事を書いたことがある。今日、少しはこの話に迫ることができるかもしれない。

 

というのも興味深い番組を観たからである。NHKクラシックTVの「ピアニスト グレン・グールドの世界」という番組である。

 

世界的に有名だが、かなりの変人という紹介から始まったこの番組は3つの切り口から彼の音楽に迫ろうとしていた。

 

最初のコーナーは「エキセントリックなピアニスト」

 

演奏中に鼻歌を歌う、異常に低い椅子(体重を鍵盤に乗せられない→指だけで弾く→フォルテが出ない→フォルテにあんまり興味がなかったんじゃないか説)、電話魔、人より動物が大好き等、彼の変人ぶりを一通り紹介した後、まず清塚がこう言った。

 

「一つ一つの音(の大きさ)を全部コントロールしたかった、自分のところで支配したいっていう表れがあの異常に低い椅子だったんじゃないか」

 

「エキセントリックって言うけど、実はものすごくオーソドックスなところを押さえてあるっていうのが分かる演奏です。だからめちゃくちゃ美しい」

 

ここら辺は素人には分からないが、プロのピアニストが言ってるんだから、きっとそうなんだろう。そして著名なピアニストが彼について語る。

 

小山実稚恵はこう語っている。

 

「一番のグールドの音楽の魅力はそこに喜びがあること。・・・・学習と芸術の違いはそこに真の喜びがあるかないかということにかかっている」

 

青柳いづみこはこう語る。

 

「とことんゆっくり弾いてみたり、とことん速く弾いてみたりっていう実験をしてるんですけども、どんなにデフォルメしても音楽本来の形は変わらないっていうか崩さない。普通の才能がそういうことをすると、音楽自体ががたがたになってしまうと思うんですけど、正統的な音楽性を持っていて、その上でのデフォルメだった」

 

清塚信也は「みなさんおっしゃるのは、『オーソドックスから離れているという言い方はできない』んですよね。『悦楽がある』って小山先生がおっしゃってたけど、そこに喜びがあるから、そのまま人に出すっていうこの怖さを乗り越えた人だとも思う」とコメントしていた。

 

清塚や青柳はグールドの演奏を「オーソドックス」という言葉から切り離せないと思っているようだ。つまり「正統的」「伝統的に承認されている」(ウィキペディア)というわけだ。

 

うーむ。でも清塚は、前半と後半で違うことを言っているようにも聞こえるな。「オーソドックスから離れているわけではない」は分かった。繰り返すがプロが言ってるんだからそうなんだろう。問題は後半だ。「そこに喜びがあるから」の「そこ」ってどこだ?「オーソドックスから離れる」ってことかな?しかもそれをそのまま出すって怖いことなんだ、清塚にとっては。でもグールドはきっと違ってたんだよな。これはあれですよ。「確信犯的に『オーソドックスを超える』」ってことだ、きっと。

 

 

続いては「革命的な演奏スタイル」のコーナーだ。キーワードは「ポリフォニー」。つまり「メロディーに対して伴奏ではなくて、メロディーに対してメロディーがくるっていうこと」「右手がメロディーをやっていれば左手もメロディーをやっているっていう状態のこと」(清塚)である。右手と左手の強弱のつけ方が非常に難しいという。

 

これを(ポリフォニーが特徴の作曲家である)バッハだけではなく、あらゆる曲にほどこしたっていうのがグールドの特徴だそうだ。

 

Q:「君は左手を重視しているけど、普通左手は伴奏するだけだよね?」

G(グールド):「僕は対位法(ポリフォニー)を使った音楽が大好きだから対位法を使っていない音楽には自分で内声部を作って対位法を持ち込む。きっと酷評されるけど僕は全然気にしない」

 

そしてグールドは、ピアノに向かう

 

G:「モーツァルトが良くなるかはともかく«ビタミン剤»を注入して生き生きさせる」「普通の弾き方はこんな感じだ」

と言い、オーソドックスなモーツァルトを弾いて見せる。

 

G:「でも僕はこうやって弾く」

と言い、グールド版モーツァルトを弾く。えらくパキパキとした音だな。これが「ビタミン剤」を注入したモーツァルトか。

 

この映像を観た清塚は「伴奏じゃなくて、全てが意味のあるメロディーなんだと。全員が主役のセリフを言っているみたいな雰囲気にモーツァルトをしたかったのかなっていう感じもあります」とコメントした。つまりグールドは今までの譜面の読み方やら弾き方やらを無視し始めたってことか。つまり「オーソドックス」から離れ始めた。

 

今までの話をまとめてみると、とにかくグールドは、まず「オーソドックスな演奏」ができた。それも完璧なまでに。そして曲が生き生きとするならば、どんな手段も厭わない人だった、と言えるのかもしれない。

 

こんな人はクラシック界にはいなかったんだろうな。

 

 

ここまで観ていて思い出したことがあった。ある先生のサイトでの言葉である。

 

歌舞伎役者が「『型破り』とは、『型』を持っている人間だからできること。『型』がないものがやれば、それは『型なし』になる」と言っていたそうだ。

 

「型」というのは、つまりは「オーソドックス」(正統的)ということであろうか。僕はそうだと思った。だからまたまた思い出したことがある。星新一の言葉だ。

 

「SF作家は突飛もない人間と思われがちであるが、実はとても常識的な人間である。何故ならどこまでが常識か分からないと、どこからが突飛なのか分からないからである」

 

 

「オーソドックス(あるいは型)から始まって」「そこから(確信犯的に)はみ出した」らそれは「確信に満ちた」何がしかになるのだろうか。ロック・ミュージックの場合で考えてみよう。

 

 

レッド・ツェッペリンというかジミー・ペイジは、スタジオミュージシャンとして数々のセッションに参加することで当時の音楽を吸収し、またヤードバーズのメンバーとしてブルースやロックを演奏してきた。それは誰からも認められる仕事ぶりだった。そしてそこからの脱却を目指して結成したのがレッド・ツェッペリンである。

 

当時のポップミュージック、ロック、ブルースの「型」というものを熟知していたからこそ、その「型」からはみ出した音楽を作りたかった。そして「こいつだ!」というメンバーを探し、「これだ!」と思う曲ができるまでメンバーとセッションしていたに違いない。その結果「幻惑されて」等の今まで聴いたことのない音楽が生まれたのではないだろうか。

 

そう思うとビートルズなんかは最初から最後まで確信犯的行為を行いながら音楽活動を続けていたんじゃないだろうか。主にジョンとポールとジョージ・マーティンだと思うけど。奇妙なコード進行(←いや、そんなに知っているわけではない)、奇妙な拍の取り方(YouTubeで確認した)、音の加工等でどんどんオーソドックスから離れていった。離れれば離れるほどファンは(戸惑いつつも)狂喜した。

 

どう?僕の「確信的な音」=「確信犯的にオーソドックスからはみ出す」論。勿論前提として卓越した「オーソドックス能力」がなければこれは成立しない。説得力あるかな?

 

番組に戻ろう。

 

 

最後のコーナーは「革新的なレコーディング」だ。グールドはそれまでクラシック音楽界では誰もやっていなかったテープの切り貼りによる「いいとこどり」をやった。それはエンジニアにとって気の遠くなる話だっただろう。清塚が次のように言っているのが印象に残った。

 

「天才や芸術家っていうのは根気がいることをあまり根気と感じない人だ」

 

 

これには賛成1票である。凡人には到底できないことだからこそ、僕達は数々の天才の作品を聴いたり、見たり、読んだりするのだろう。これからの時代に、どんな形で天才が現われるのか楽しみである。

 

 

すこーし腑に落ちたぞ。イエイ。