hanami1294のブログ

現在休職中の小学校教員のつぶやきです(只今復職中)。

ヴォイス その1

僕がヒガトシオという男に会ったのは、そろそろ寒くなろうかという晩秋の夜だった。その日は金曜日だったので思い切って宿を取り、金沢で酒を飲むことにしていた。夜に活動するのは年に数回だ。そのほとんどはライヴを見に行くことだった。酒を飲むために夜の活動をするとなると数年に1回だ。どこで飲むのかは決まっている。知り合いの女性(ノゾミという)が経営しているバーだ。最近はとんとご無沙汰だったが、何故か「今日行こう」と思い立った僕はすぐに宿の予約を入れた。そして1時間早く退勤することにした。年休届けを持っていくと校長に「最近、調子どう?」と聞かれたので「まあまあです。」と答えておいた。

 

僕は地方都市で小学校の教員をしている。改めて数えてみたら30年以上教員として働いている。人生の半分以上だ。しかし定年も延長されるようだし、もう少し働かなくてはならない。そう思うとげんなりするというのが今の正直な気持ちだった。どうしてこんな風になったのだろう。今まで退職金はいくらだろうとか、もうこの仕事を辞めたいな、という風に思ったことはない。どちらかというと僕は仕事に関しては真面目な方だったと思う。服装等いろいろ問題があったとしてもだ。特に40歳を過ぎてからは、授業に対していろいろな試みをするようになった。このままいけば50歳を過ぎたら管理職になりそうな勢いだった。

 

しかし現在57歳で、僕は相変わらず教諭だ。管理職にはなっていない。いろいろと事情があったのだ。おいおい話していこう。酒を飲みに行くんだった。

 

ノゾミには知らせなかった。何となくバツが悪かったからだ。いきなり行ってびっくりさせようと思った。首尾よく退勤し、30分ほど高速道路を走って金沢に行った。17時30分頃バーを見下ろす位置にあるホテルにチェックインして、部屋の中で読書をしながら開店の時間を待った。18時を過ぎたのでそろそろ行くか、と思い店に向かった。

 

店に入った瞬間、ノゾミと目が合った。おお、元気そうだ。そう思ったのも束の間、彼女は困ったような顔を僕に向けた。あれっ?今日は満員なのかな?と思い、出直そうとすると、彼女は「おいでおいで」と身振りで僕を招いた。よく分からないまま店に入ると客はカウンター席の端に1人いるだけだった。なんだ、座れるじゃんと思った僕は先客とは反対のカウンター席の端に座った。

 

この店はカウンターが5席ほどとテーブル席が2つセットされたこぢんまりとした店である。ノゾミは美大出身で、学業の傍らホステスの仕事をしてお金を貯め、この店を開店させた。彼女が美大生だった頃、僕達は2年ほど付き合っていた。別れてからも親交があったので、彼女が店を出したという知らせを聞き、それ以来数年に1度気が向いたら訪れるようになっていた。僕は夜の活動はできない人間だから、なかなか気軽には行けなかったのだ。店にはノゾミの他に美大生が1人、バイトとして入っていた。店に行った時の僕は大体ノゾミの話をうんうんと聞いている時間が長い。ノゾミはその時夢中になっている音楽を僕に熱心に話してくれる。そしてその場で音楽を流し、感想を求められる。大体がいいね、気に入ったよ、と答えることになるが、ギドン・クレーメルアルヴォ・ペルトはその後の僕の音楽生活に大きな影響を与えたアーティストだった。

 

「久しぶり。いつものようにビールで乾杯かな」と僕が言うと、ノゾミは「おいちゃん、(僕は彼女から『おいちゃん』と呼ばれていた)今日は私たちはいいから、好きなものを頼んで」という。要領を得ないままラムトニックを頼んだ。今日は何だか様子が変だ、と改めて気づいたのは音楽が耳に入って来た時だった。ドアーズの「ハートに火をつけて」がリピートで鳴っている。へえ、珍しいな、ドアーズなんて流すこともあるのか、と思ったが、何回もリピートしているのは何だか変だ。事情があるのだろうか。僕がさりげなくノゾミの顔を窺うと、ノゾミもこちらを見ていた。そしてカウンターの奥から指を差した。その指の先に先客がいた。彼がドアーズと関係しているらしい。

 

どうも今夜の僕には仕事があるらしい。隣にいる先客の相手をすること、そして何とかドアーズのリピートをやめさせることの2つだ。僕がそんなに社交的な男じゃないことくらい彼女は知っているはずなんだけどな。でもよほど困っていたのだろう。しゃあない、全力で社交モードのスイッチを入れるとするか。僕は彼に声をかけた。「よろしかったら、一緒に飲みませんか」

 

しかし彼は宙を見つめては、紙に何かを書いているようで、僕の声なんかまるで届いていないようだ。僕は思い切ってさっきより大きな声で「あのー、ドアーズがお好きなんですか」と声をかけた。

 

彼はゆっくり僕の方に目を向けた。やっと僕という存在に気づいたようだった。「ドアーズ、知ってるんですか?」と好きか嫌いかは答えずに僕に言った。「はい。いいですよね、『ハートに火をつけて』」。僕がそう答えると彼は僕の隣の席に移ってきて言った。「ジム・モリソンについてはどう思います?」おいおい、いきなり隣席かよ、コロナはまだ収束してないんだけど、と思いながらも第一の目標を達成したことを感じていた。ノゾミは僕にこの男の相手をしてほしいのだ。なになに、ジム・モリソンについてどう思うかだって?