冬眠日記その39 ~「クライ・マッチョ」の巻~

1月15日(土)

 

コーヒーウォーマーというものはとても便利だ。いつでもあったかくておいしいコーヒーやお茶を飲むことができる。「高い買い物をしたものだ」と最初は思ったが、何だかんだ言って愛用している。ただ、直にサーバーをのせると熱くなりすぎるので、僕の場合、10円玉を敷き詰めている。見栄えが良くないのが難点だ。

 

ところで日記を書くということは、嘘をつけなくなるということなんだな。ちょっと困る。恥ずかしいことまで書かなければならない。今日は昼から家でダラダラとテレビを観ていた。以上、である。何と257歩であった。

 

 

1月16日(日)

 

正確には土曜日の11時40分に目が覚めて、リビングに行った。しばらくぼぅっとしているうちに日曜日になった。僕はそれに気づかず、気がついたら眠っていた。5時頃目を覚まし、無理矢理起きてコーヒーを淹れて1杯目を飲むとだんだん頭がはっきりしてきた。何故かストーンズの「ミックスド・エモーション」を聴きたくなって聴いたらそのままストーンズ特集になってしまった。

 

ここ2週間、口が乾いてしょうがないのだが、はたと気づいた。そういえば、冬場は加湿の効果も見込み、洗濯物はリビングで乾かしていたんだった。洗濯担当の俺としたことが忘れていたぞ。早速物干し台を移動させた。

 

昨日は「バングラデシュ」で云々と書いたが、正確には「バングラデシュ・コンサート」である。これは、1971年8月1日に行われたジョージ・ハリスン主催のチャリティー・コンサート「バングラデシュ難民救済コンサート」を収録したオムニバスのライヴアルバム作品である。このコンサートこそロック史上初めてのチャリティー・コンサートとして知られている。僕は長らくこれがバングラデシュで開催されたと思い込んでいた。しかしこのコンサートはニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで昼夜2度に渡って開催されたものだった。「ライヴ・エイド」が開催される14年前のことだ。

 

「レット・イット・ビー」が発売されたのが1970年5月8日、ジョージのソロ第1弾「オール・シングス・マスト・パス」が発売されたのが1970年11月27日。そして翌年の夏には「バングラデシュ・コンサート」である。ジョージ、大活躍である。

 

ラヴィ・シャンカール1曲(16分!つらい!)、ジョージ10曲、ボブ・ディラン5曲、レオン・ラッセル1曲、リンゴ・スター1曲、ビリー・プレストン1曲が収録されている。スワンプ・ロック真っ盛りのジョージだったから、バンドもそれに相応しいやらバッドフィンガーのメンバーもいるやらなかなかごちゃごちゃしている。

 

以上ちょっと中途半端な終わり方だけど、次の話題にいかせて頂戴。

 

 

 

昨年「来るぞ来るぞ」とクリント・イーストウッドの映画に触れたが、遂にやって来た。「クライ・マッチョ」である。いろいろと僕なりに考えた末に観に行くことに決めた。あさイチで行ってきたよ。前にも書いたが映画館でクリント・イーストウッド主演の映画を観るのは「人生の特等席」(2012)以来10年振りである。そしてこれが最後かもしれない。だから点数は甘くなっちゃうかもしれないけど・・・やっぱり素晴らしい作品だった。監督デビュー50周年、40作目の作品に相応しいよ、全く。

 

前に書いた記事から引用させてもらおう。「落ちぶれた元カウボーイ(マイク)と少年(ラフォ)の旅を通して語られる«人生»とは?喜びや悲しみを背負い、なお人生を歩み続ける、生きる上で必要な«強さ»とは何かを温かく、時にユーモラスに時に切なく語りかける。40年前から検討されていた原作の映画化に、イーストウッドが満を持して向き合った本作は、まさに彼の集大成にして新境地ともいえる作品だ」(ヤフーニュースの記事から)

 

内容に触れることになるが、簡単に感想を書き留めておこう。

 

まず、クリント・イーストウッドだが、「落ちぶれた元カウボーイ」というにはあまりにも歳を取り過ぎている。それが如実に表れるのは歩き方と喋り方だ。もう老人の歩き方喋り方になっている。それでもこの映画を成り立たせているのは、年齢をも凌ぐ存在感の確かさだ。クリントには演技がどうとか言う気持ちにはまるでならない。そこに居て、喋ったり動いたりしていれば、それが映画になるって感じである。

 

クリント演じるマイクは、恩のある元雇い主からメキシコにいる息子(ラフォ)を連れ戻して欲しいと依頼されるが、この息子もいい味を出している。ここら辺のキャスティングの妙はさすがクリントだ。でも前情報ではラフォって結構嫌な奴っぽく書かれていたけど、全然そんなことなかったぞ。まあ小狡いところはあったが、愛を知らずに育ってきて、誰かを信用したいと思い続けている少年として描かれていたかなあ。でも母親の情夫っぽい奴に虐待されてもいたしなあ。そこら辺は複雑な思いを持ちながら生きていた少年なんだろう。あ、でも彼の機転でいくつか危機を脱することができたので、小狡いけど、頭の回転が速い子なんだろう。そうじゃないと路上で生きていけないしね。でも根はいい子って感じで描かれていたな。

 

そんなちょっと訳ありな少年の心を開かせようとしたらクリントの右に出る人はいない。時に暴力で(まだパンチしてる)敵をやっつけ、そしてほとんどは言葉と態度で男とは?を少年に見せつけるクリント。元カウボーイなんだから馬の存在も重要である。ある町に留まらざるを得なくなったマイクは馬を調教する仕事を得た。そして、ラフォに馬の扱い方を丁寧に1から教える。当然クリントが手本を示さねばいけない場面もある。そこで馬に乗っているクリントを見ることになるのだが、90歳だよ。90歳の人がこんなにすんなり馬に乗れるなんてすごいよ、と思わずにはいられなかった。それに何故か他の動物の面倒も見る羽目になるマイク。「俺はドリトル先生か」と呟く姿は可愛い。

 

そしてこの町でカフェを営んでいる女性(マルタ)の世話になるのだが、ここも見せ場がいっぱいだ。いやあ、女性を蕩けさせるのも(もちろん)クリントは超一流だ。なんてったって、マルタとその孫4人を手なずけちゃうんだから。マルタは一発でクリントに惚れてしまうし、孫たちは少しずつ彼の素敵さに参っちゃうんだから、すごい。特に聾唖者の孫に手話で話しかけるクリントはチャーミングだ。何でもできちゃうのである。

 

 

そして最重要シーン。これはネットにも書かれているから、もう得意の引用でいきますね。

 

「あんたはとても強かった。マッチョだ。今は何もない」とラフォに言われるとマイクは、「そうだ。昔は大した男だったよ。でも今は違う。だがいいか、«マッチョ»は過大評価されている」「人は自分をマッチョに見せたがる。力を誇示するために。それが何になる。くだらんよ」「まるですべての答えを知ってる気になるが、老いとともに無知な自分を知る。気づいたときには手遅れなんだ。だが、俺は変えようと思う。これからの人生のために」という達観した見解をラフォに伝える。くゎっこいい~ぜ、クリント。

 

無事ラフォを父親に届けたクリントはさっと踵を返し、マルタの家に向かう(可愛い)。そして彼女と一緒にダンスするシーンで映画は終わる。

 

104分という時間から小品と判断されるかもしれないが、しみじみとしたいい映画だった。いろいろ予定調和なシーンもあったけど、そんなものは超越しているのだ、クリント・イーストウッドは。久々に「映画観た~」って感じだ。

 

あ、それとカウボーイハットの映し方に拘っているな、というのが伝わってきた。あと、クリントの宗教観も伝わってきたな。

 

 

 

これが立って演技するクリント・イーストウッドを観る最後の映画なのかもしれない。あとは車椅子かベッドで演技しているクリントしか思い浮かばないもの。もしかしたらクリントはこれで有終の美を飾るつもりなのかもしれない。でも僕はどんな姿のクリント・イーストウッドであれ、まだ彼の演じる姿を見ていたい。

 

 

できればもう1回映画館で観たいんだけどな。無理そうだな。