hanami1294のブログ

現在休職中の小学校教員のつぶやきです(只今復職中)。

冬眠日記その15 ~君たちは吉井和哉の息子かい?の巻~

土曜日に本屋に行ってまた衝動買いをしてしまった。列挙してみよう。花村萬月「夜半獣」、ロッキングオン1月号(2021年の年間ベストアルバム特集)、キネマ旬報クリント・イーストウッドの「クライ・マッチョ」特集)、そしてレコード・コレクターズ増刊のジョージ・ハリスン・イン・スワンプロックの4冊である。

 

何から読めばいいんだ?いや、まずはロッキングオンからだな。と言いつつ年間ベストアルバムからじゃなくて、今月のアルバムレビューから読んでいく。そんで読んでみたんだけど本当にアルバムレビューをしている人には頭が下がる。いや皮肉じゃなくて。これだったら今月のアルバムだけで年間ベストに入るくらい美辞麗句が並んでいる。わけの分からん(文学的な)言葉遣いも健在である。一応気になったアーティストは聴いてみることにしよう。死ぬまでに聴くことが出来るアーティストや曲はもはや限られているというのに、まだ新規さんを掘り起こそうとしている。まあこういう貪欲な時期もあっていいかもしれない。「ゲット・バック」のレビューも掲載されていたが、悔しいから読んでない(そうなんだよ。まだ観てないんだよね。ああ、早く観たい)。

 

そしてキネマ旬報だ。僕はこの本を初めて買った。クリントの記事はそれなりに面白かったけれど、あれだな、評論家の書く文章ってどのジャンルでも大体似たようなものだな。つまり文学的且つ観てもらおうという魂胆が透けて見える。

 

花村萬月は多作である。しかし大きな病気をしているのに今年2冊も本を出しているのはどういうわけだ?あとがきでは近日中に「たった独りのための小説教室」という本を出版するらしい。その本からの引用もしている。

 

「小説家の心構えとしては、自身の文体にかかわる文字言語において、音声言語にどの程度添うべきか、それを冷徹に見極める必要があります。読楽で連載している〈夜半獣〉という作品は、私にとって思い切り音声言語に近寄った実験的な作品」

 

だということだ。実験的な作品か。花村の実験的な作品は、結構読みづらいからなあ。でも音声言語に近寄った作品らしいから、期待している。しかしあとがきから読むのもいけないよなあ。とは言え、さすがは花村萬月だ。繰り返して書こう。「自身の文体にかかわる文字言語において、音声言語にどの程度添うべきか、それを冷徹に見極める必要があります。」か。これは小説家に限らず、文章を書く時には心がけておくべきことだよな、と思い知った。

 

もうひとつ、あとがきで印象に残っているのが「小説家になって、始めて完全に夢を土台に執筆しました」らしい。その夢のことを明晰夢というらしい。老いてなおも小説に関しては血気盛んな花村である。

 

僕もさっき妙ちくりんな夢を見たぞ。僕は柔道部である。一生懸命練習をしていた。しかしある日の僕は柔道部のコーチと一緒に鶏ガラスープを一生懸命作っていた。高校生の僕はよく分からないまま、必死に灰汁をとっていた。それから「余り物で何か作っておけ」と言われ、肉じゃがを作っていた。作り方をスマホで検索していたら、そこにアントニオ猪木が現れて・・・という夢である。こういうのはお話にならないから明晰夢とは言わないのかな。

 

 

 

ここまでは半覚醒状態で書いている(いた)。今から本気を出すぞ。

 

 

知人から「アシッド・ブラック・チェリー」というバンドを知っているか?と尋ねられた。そして私は好きなんだけど・・・と言われた。好きな人から紹介されることが大好きな僕は早速検索してみて曲を聴いてみた。

 

これは・・・。僕の世代で言うと、吉井和哉じゃないか?ベースラインといいメロディラインといい、ヴォーカルの歌い方といい、吉井を連想してしまった。ということは吉井和哉にも息子ができたのだろうか?勿論音楽上の、である。僕はそうか、吉井和哉もそんな歳になったのか、それじゃあ息子がいるのも当然か、と思った。そして他にもいるはずだ、と思い、当たりをつけたのが、9㎜ Parabellum Bulletと黒猫チェルシーだ。1回も聴いたことがない、というわけではない。けれどほとんど聴いたことがない。なのに何でこのバンドに当たりをつけたのだろう?まあいいや、聴いてみっか。

 

まずは9㎜ Parabellum Bulletだ。「ハートに火をつけて」を聴いてみた。

♪君はとてもツイてる 悪い癖がついてる 自分に自分は見えない

♪君はとてもツイてる 深い傷がついてる そしてそれを忘れてる

♪ボロボロに破れて 剥がれた過去のかさぶたが 今さら痛み出しても

♪一人では塞げない

♪だから火をつけて ハートに火をつけて 二度と消えないように

 

ちょっとメロデイが歌謡曲っぽい。歌詞も何となく吉井から影響を受けている節がある。さらに検索すると、イエロー・モンキーのカヴァーアルバムに参加(TVのシンガー)しているではないか。当たりである。息子に認定しよう。

 

次は黒猫チェルシーか。「青のララバイ」という曲を選んでみた。

♪風が吹いていく 夜をまたよろけて歩く

♪ぶつかって転んで失敗ばっかしで 負けそうになるけど

♪笑われたっていいよ 必ずうまくいくさ ごめんねだって言える

♪泣きたい泣きたい泣きたいくらいに

♪綺麗な月の下 歌を歌おう

 

これも歌詞というか言葉遣いに吉井からの影響を感じた。メロデイは「熱い感情」を歌う時の吉井っぽい。このグループも彼の息子として認知しよう。黒猫チェルシーに失礼かな。でも昔吉井と対談しているのを読んだ記憶があるからよしとするか。

 

そしてさっきのアシッド・ブラック・チェリー(正確にはAcid Black Cherry)。「Black Cherry」「蝶」「ピストル」の3曲を聴いた。歌詞は・・・。ここには書けないぞ。そうか。これは「エロモード」になった時の吉井だな、きっと。となると、イエロー・モンキーの歌謡ロック路線を思い浮かべてしまうなあ。しっかしAcid Black Cherryに限らずテンポが速い曲が多いなあ。このスピードはおじさんにはついていけないぞ。

 

それにしても僕はもうこんな聴き方しかできなくなったんだ、と思った。つまり若いバンドに対しては「〇〇の〇〇か」みたいに今まで聴いてきたアーティストの何かに置き換えるという聴き方しかできなくなっているということである。これはちょっと上から目線でイヤらしくないか、と思った。思えば先日の90年代ロックについての文章も上から目線っぽかったな。そのバンドなりアーティスト、リスナーには大変失礼な聴き方である。そしてこういう聴き方しかできない人を「おじさん」と呼ぶのだと思った。今の僕は「おじさん」にはなりたくはないという気持ちと「おじさんなのを隠すことないんじゃない?」という気持ちが半々である。結構複雑な気持ちで若いバンドを聴くことになった。

 

 

うーん、やっぱりロッキングオンのディスクレビューで扱っていたアーティスト達を本気で聴いてみることにしよう。話はそれからだ。僕の「おじさん化問題」に発展しそうで怖いな。いや、もうそんな問題が成り立たないくらいの状況なのかもしれない。

 

 

ところで当の吉井和哉とかその辺の年代の人達って年下のバンドのことをどう思っているのだろう?去年甲本ヒロトは今の若手バンドについて「みんないいと思う。『やったるでー』っていう気合が若い人たちはすごいから。ただ一つ言うとしたらデジタルっぽいかな。歌詞を聞き過ぎだと思う」とコメントしていたな。

 

 

確かに「やったるでー」という気合は若い人に負けるかもしれない。自分のことで言うと、だけど。