過去Ⅱ-②

「2年目は、6年生を担任をしろと言われた。そして研究主任、児童会の担当もしろと言われたよ。どういうことか分かる?一言で言うと学校全体を動かせってことだ。児童会の仕事は大体分かるよね。研究主任は・・・、学校の校務分掌の中では職員は大きく分けて生徒指導と学校研究の2つに分かれるんだ。その他細かい分掌はあるけどね。それで学校研究の方をやれと言われたんだよ。俺はぶったまげたね。だって学級経営の方が得意だったし、管理職もそう思っていただろうから、やるとしたら生徒指導の方かなって思っていたんだ。学校研究っていうのは、児童の実態を見て、じゃあこの教科でこんなことを育てていこうと決めて取り組む分掌だ。そのリーダーが研究主任だ。何より教科の専門性が問われるポストだ。何年を担任するかより先にこっちの方が先に言われたな。そんな大役できませんって言ったよ、勿論。でも教頭が言うんだ。『タナカさん、あなたもこれから年を重ねてやがて管理職になっていくんでしょ?それともすごい授業をする先生として教員人生を終わるつもり?』ってね。『そんなすごい授業できるわけないじゃないですか。』『だったら研究主任を経験しておくべきよ。』これで話は終わり。断るもくそもなかったな。そこからが当然だが大変だった。」


「研究主任って何をやればいいんだ?から始まったからね。前任の先生に聞いても『あなたがやりたいようにやればいいじゃない。』と言われて途方に暮れたよ。だから教頭先生のところに行って質問しに行くことになるわけだ。何の考えも持たずに行くとすぐに見破られるし、何をどう考えていいか分からない状態がずっと続いたよ。でもとにかく分からないからいつも赤ボールペンを持っていって教頭先生の言うことを書きまくっていたな。『先生、すみません、もう1回言って下さい。』って言っても『もう忘れた。』って突き放されるし。その時からメモを取る癖がついたな。結果的に研究主任を3年やったんだけど、あの3年で授業の見方は変わったよ。算数が学校研究の教科だったんだけど、より数学的な見方ができるようになった。少しだけね。だから授業整理会でも自分の意見が言えるようになってきたよ。」


「それに6年担任として、また児童会担当としての仕事もあった。今までもそうだったけど、俺は『いいクラス』を創りたかった。俺にとっては、『子ども同士の関わりが深い』ことが『いいクラス』だった。だから今まで受け持ってきたクラスではよく学級会をしていたよ。さっきも言ったけど、それぞれの子ども達が思っていることをみんなの前で話すことで、子ども同士の関わりを深めていこうとしていたんだ。6年生は周りの先生から見ると『できのいいクラス』らしかったが、俺にはそう見えなかった。周りの友だちや先生の顔色を窺って行動する子が多かったし、授業でも決まった子しか発言しなかったからね。子ども達の学習に対する姿勢については随分子ども達に話したな。子ども達は『セッキョー』と呼んでいたけど。2学期になると随分心がほぐれてきたな。授業でもいろいろな子が発言するようになったし。1学期の『セッキョー』の成果がでてきたな、と思えるようになった。児童会の活動は、もう子ども達に任せても大丈夫だった。」


「そんな風にして大変だったけれど充実した時間を過ごすことができた2年目だったけれども5年生、つまり昨年度俺が担任した学年がどんどん崩れていった。支援会議を何度も開いたけれども上手くいかないまま1年が過ぎようとしていた。」


「そして3月のある夜に言われたんだ。教頭先生と2人で職員室で仕事をしていた時に、さりげなく『タナカさん、来年6年を受け持ってくれない?』って言うんだ。俺はその頃にはもうあの子達を受け持つ決心をしていたから『いいですよ。』って答えたんだ。またあの戦いが俺を待っていた。」