全てはサカグチ先生との出会いから始まった

僕の教員人生「本格的に真面目になった編」はサカグチ先生(仮)と出会ったことから始まったと言っても過言ではない。その時僕はもう40歳を少し超えていた。遅すぎる出会いだったが仕方がない。これも運命だ。それより出会えたことの奇跡を喜ばなければいけない。

 

サカグチ先生は隣の市から僕の勤務してる市の大規模校に異動してきた。すごい先生だという話は聞いていた。学校で公開授業をした時には、サカグチ先生の教室だけ参観者が廊下にあふれ出るくらい来ていたらしい。その後教務を何年か務めた後、僕と同じ年に教頭として同じ学校に異動したというわけだ。

 

同じ年に異動したとはいえ僕たちは教頭、教諭という立場だった。僕はその小学校で最も大変な学年を持つことを命じられる。その時のことはブログを立ち上げるきっかけになった「400」にも書いた。

 

それ以来(今も)お付き合いさせてもらっている。

 

その年のことを少し書くとするか。僕は4月5日から毎日帰りの会が終わると疲れ切って職員室に戻っていた。毎日毎時間何かしら事件が起こっていたからだ。それを見たサカグチ先生は僕に「(学級を立て直すための)支援会議を開かないか」と持ちかけた。僕が、そして僕のクラスが大変なことになっていることを察知してのことだった。

 

普通4月に支援会議は開かない。そんな意識の高い管理職はなかなかいない。クラスの様子を見たり、担任に声をかけたりするのにとどまるのが普通だ。サカグチ先生はこの学校で始めて教頭になったので張り切っていたのかもしれない。いや、そんなことないな。前任校で教務をしていた時も学校全体を見ていたという話も聞いていた。

 

支援会議後、何とか僕を支え、クラスを何とかしようといろいろなアイディアを出してくれた。いろいろな取り組みをした結果、その年は何とか「子ども達は成長したな」と僕(達)が思えるような終わり方ができた。そして僕はその学年を「持ち上がりをしてもいいな」とも思うようになっていた。しかし、次の年は学校の要となる6年と学校研究という校務分掌と児童会の担当を命じられた。新5年のことは心配は心配なので5年の社会を担当することにもなった。

 

心配は現実のものとなった。5年生が日々壊れていくのを見るのは辛かった。反対に自分が担任した6年はどんどん成長する姿が見られた。僕は心配しつつも充実した生活を送っていた。

 

そして3学期の終わりも近づいた3月のある日、僕はサカグチ先生と2人で夜職員室で仕事をしていた。何かの会話の拍子に「ねえ、hanamiさん、来年度6年を持ってくれない?」としゃらっと言われた。普通は大変なクラスを1年間持ったらもうそれでそのクラスを持つことはほとんどない。でも、僕の方ももう決心していた。来年度は6年を持つしかないかな、と。だから「分かりました」と答えた。来年度誰がそのクラスを持つのかというその学校で一番重要な案件はそれで決まった。

 

こういうところ(さりげなく自分の思惑通りにするところ)、ホントに上手いんだよな、サカグチ先生は。今まで何度その口車に乗せられてきたことか、と思いつつも嬉しかったりするんだな、これが。

 

しかし、社会を担当していたとはいえ1年間空くというのは続けて持ち上がるのよりキツイ。マイナスからのスタートになるからだ。僕は更に頑張り、その1年間を何とか終えることができた。不本意なこともあったが、ほとんどの子どもは大きく成長したんじゃないかと思っている。ぼくにとっても感慨深い1年だった。しかし初めて精神科に行ったのもこの年だった。僕は結構、いや自分でも知らないうちにかなり疲れていたのだと思う。精神科を受診するのを進めてくれたのもサカグチ先生だった。

 

そしてその年度が終わり、サカグチ先生は校長として他の小学校に異動することになった。3年間という短い期間だったが多くのことを学んだ3年だった。

 

そしてありがたいことにサカグチ先生との付き合いはそれで終わることはなかった。

 

 

                                 (続く)