今日は何といっても彼の出世作「赤色エレジー」にふれねばなるまい。この曲は1972年4月25日ベルウッド・レコードのスタートと共に発売された曲である。音楽プロデューサーでベルウッド・レコードを立ち上げた三浦光紀の予想通りヒットし、あがた森魚とベルウッド・レコードは、音楽界の新しい波として評判になった。50代の人なら1度は聴いたことがあるだろう。もしかしたら40代後半の人も。60代以降の人は全員知っているはずだ。
しかし、自伝を最初から読んでいくうちに「赤色エレジー」まで、かなり時間がかかっていることが分かった。昨日も書いた細野晴臣、鈴木慶一、早川義夫、遠藤賢司、はちみつぱいというバンドなどなどが蠢き出して、その人達と絡みながら、コンサートもやり出してから発表された作品だった。
まずは聴いてもらおう。2009年のあがた森魚である。圧倒的なテンションで歌っている。脇を固めるミュージシャンも凄腕揃いだ。
もしこの曲を初めて聴いたら、「あ、聴いたことある」と思うご年配の人がいるのではないだろうか。僕もそうだった。これにはまたいろいろややこしい話(今でもあがた自身が引き摺っているくらいの話)が絡んでいるようである。ちょっとだけ書くとこの曲のクレジットは最初あがたの作詞作曲となっていたのに、レコード会社の上層部はこの曲を「あざみの歌」に酷似しているとし、「作曲/八州秀章 作詞/あがた森魚」とした。ところがあがたは「あざみの歌」は聴いたことがない、と言う。そんなこんなで1972年のデビュー時から2022年の4月21日までずうっとこの問題を抱えていたらしい(未だスッキリと解決していないようだが)。実に50年間である。興味があったら調べてみてください。
この歌の歌い出しは ♪愛は愛とて何になる/男一郎まこととて♪ である。コードは、Am、Dm、Am、Dm、Am、E7、Amだ。僕でも弾けるこのコードにのって、あがたが歌い出すと異次元の世界に連れて行かれる。
「赤色エレジー」はガロに掲載された林静一の漫画「赤色エレジー」に感銘を受けたあがたが「勝手にそのテーマ曲をつくった」(あがた談)曲である。そしてヒットのきっかけになったのが、11PMという番組の出演であった。長髪、GパンにTシャツ、そして下駄を履いて(「ズックはボロボロだった。下駄なら少しちびていても大丈夫だろうとあまり深く考えずに履いて行った」(あがた談))歌う姿を面白がられて、その後もテレビ番組に呼ばれることになる。
「あがたは若い頃、『赤色エレジー』を歌うと、舞台袖で見ていた細野晴臣や西岡恭蔵から『もうすぐ泣くよ!』『ほら、泣いた!』とからかわれたらしい。しかし、単純なコード展開から、これだけの«世界»を創造できるのは、ひとえにあがたの声があってこそだろう。泣くことさえ厭わない情念とあの声が重なり合った時、余人には真似のできない魔法がかかるのである」(自伝より今村守之の言葉)。そうか、やっぱり「声」か。僕にとって久しぶりの出会いだ。
もうちょっと自伝に頼るぞ。鈴木慶一はあがたの歌い方というか表現のあり方というか、そんなことについて言及している。
「あがた君はシンガーというイメージよりも、まず、コンセプチュアルな音楽を作る人だと思っています。シンガーとして考えた場合、デビュー当時『赤色エレジー』ほかいろいろあって、変化を感じたのは『君のことすきなんだ』ですね・・・中略・・・さらに『バンドネオンの豹』でタンゴを取り入れていく。あれ以降はもう独壇場でしょう。要するにあがた流の歌い方というのを完全に確立したと思うんですよ。それはどういうことかって言うと、いわゆる普通のメロディ通りに歌うのではなく、非常に抑揚が激しくて、音程を塗り潰していく感じの歌い方になっていった。現在に至る歌い方というのはやっぱりすごい発明をしたんじゃないですか。彼にとって、歌い方の発見みたいなものがあったんだと思う・・・」
「それにしても、二十一世紀の10年代に入ってからの、あがた君の精力的なペースには驚いた。」
もしかしたら昨日のYouTubeを観て、「あがた、歌はあんまり上手くないな」と思った人がいるかもしれない。しかし鈴木慶一の言葉が全てだ。「いわゆる普通のメロディ通りに歌うのではない」「非常に抑揚が激しくて、音程を塗り潰していく感じの歌い方になっていった」「現在に至る歌い方というのはやっぱりすごい発明をしたんじゃないですか」。これ以上の賛辞はないと思われる。そして2000年代からの異常なペースでアルバムをリリースする。昨日書いた細野晴臣の「今でも一番元気なのはあがた森魚だ」という言葉が思い出される。
この日刊(日報かな?)、あと2回は続けたいな。