僕は思い切って言った。
「ヒガ君、ヒガ君は何で俺にこんな話をするの?」
ヒガ君はしばらく俯いて黙っていたが、やがて顔を上げて言った。
「僕はハナミさんに僕のことをプロデュースして欲しいんです」
プロデュース。何だそれ。黙ってヒガ君の顔を見つめていた。
「ジム・モリソンみたいな声になりたいって言った時、ハナミさんは僕の話をずっと聞いてくれましたよね。嘲笑もせず。あの時、ああこの人だったら全て任せてもいいかな、って思ったんです。でも今日のハナミさんは何だかぼぅっとしている。やっぱり僕のことを馬鹿にしているんですか?」
「いやいや、馬鹿にはしてないよ」
反射的にそう言ったが、ぼうっとしているのは本当のことだったからその後の言葉が続かなかった。今度は僕が黙る番だった。どう言えばいいのだろう。それにさっき僕に全てを任せるって言ったよな。どういうことなんだ?
「うーん・・・。ヒガ君が何をしたいのかがよく分からなくなってきたんだよ」
あー、邪魔くさくなってきた。僕の悪い癖だ。都合が悪くなったり、物事が面倒な方向に行こうとしたりすると途端に逃げ出したくなる。ノゾミもこんな僕のことをよく知っているから、僕が今どんな気持ちなのか手に取るように分かっているだろう。
「僕のやりたいことははっきりしています。ジム・モリソンの声を手に入れたら、すぐに『ハートに火をつけて』を日本語で歌ってYouTubeに上げるんです。きっとみんなびっくりすると思います。その後、いろいろな反応があると思うんですけど、ハナミさんにはそのお手伝いをしてもらいたいんです。『ハートに火をつけて』の日本語和訳の監修とか、音楽を作る時のサポートとか、他からの反応についての対応とか」
「俺は話は聞くけど、そんなことはしたくはないよ」
とはっきり言った。
「僕にはハナミさんしかいないんですよ。お願いします。手伝って下さい」
うーん・・・。そんなにまっすぐに見つめて言われると困る。僕は人から何か言われるとはっきりと嫌だと言えない人生を送って来たんだぜ、ヒガ君。それで、困ると黙り込んでやり過ごしてきたんだ。そのこともノゾミが一番よく知っている。僕は何だか恥ずかしくなってきた。
「そんな話ならちょっと考えさせて」
とだけ答えた。その場をごまかすのも僕の得意技だ。
「いや、今答えて下さい。」
ああ。こんなことならLINEを教えなければよかった。じゃあ思い切って言うか。
「俺には、ヒガ君のサポートはできない。というかするつもりはない」
「そうですか。分かりました。じゃあこの話はなかったということで」
と言うとヒガ君はさっさと店から出て行った。お金も払わず。ああ、やっちまったな、と思い、店のドアを眺めているとノゾミが、
「おいちゃん、断って正解だったと思うよ。絶対おかしいって、あの人」
と言ってくれた。
「うん。俺の優柔不断なところ、久しぶりに見ただろ」
と言うと、ノゾミは笑って
「うん。まあそれがおいちゃんだからね。あの時はごめんね」
と応える。
「あの時って?いつのことだ?」
「えっ、私と付き合っていたときだよ。随分おいちゃんには無理言ったよね。あれがきっかけでおいちゃんが病気になったのかなってずっと気にしてた」
「いや、そんなことはないよ。確かに俺、病気になってから、昔はどうだったろうっていろいろ考えてみたんだ。すると思い当たることがたくさんあって困ったよ。多分ノゾミに会う前からそういう傾向はあったんだよ」
「でも私と会って、その傾向がさらに強くなったんじゃない?」
とノゾミは言ったが、それ以上は言わなかった。僕も黙っていた。確かにあの時は突っ走っていた。別居までしたもんな。絶対どうかしていた。でもあの時は自分を責めるばかりで、ノゾミのことを責める気持ちはなかったな。もう一度あの時のことを思い出してみる。ノゾミは黙って僕の煙草を取り、火をつけて自分で吸い始めた。そして僕のことを見つめている。
ミチロウのコンサートで知り合い、彼女の家に行って、ただならぬ関係になった後も僕たちは会い続けていた。そしてノゾミは美術のことやザ・バンド、アラン・トゥーサンのことや漫画の話を僕にしてくれた。僕は彼女にミチロウのことやトモフスキー、頭脳警察のことを話した。それは強烈に気持ちよかった。働き出してからこんな話を誰かとしたことはなかった。ああ、俺は誰かとこんな話をずっとしたいと思っていたんだ、と心から思ったものだ。
性的にも随分な無茶をした。2人が知り合ってから初めての夏休みの昼頃は、ほぼ毎日ノゾミのアパートにいた。そしてお互いの体を貪り合った。いろんなことをして。この時の夏の間に僕の体毛には白髪が劇的に増えていた。
こんなことを思いだしたのは2週間に2度という今までにないサイクルで彼女と会ったからだろうか。2週間前は久しぶりにセックスをした。そのことも関係しているのだろう。と言ってもお互い結婚しているし、今更どうこうなりたいという気持ちはなかった。こういう機会を作ってくれたのはヒガ君だ。彼にはちょびっとだけ感謝しなけりゃいけないな。
思い出に浸ってばかりいるわけにもいかないが、僕はまだ店から出たくなかった。ノゾミと喋っていたかった。それが事態を悪化させることになるとはこの時は思いもよらなかった。