ほんとに平沢にどっぷりハマったのは2009年、つまり発病後のことだった。きっかけは「白虎野」というアルバムだ。例によって最初は「ふうん」だった僕は、ある日タイトル曲を聴いてぶったまげた。これは超名曲じゃないか、と大いに反省した僕は平沢作品を買い漁ることになった。
それからは、朝グレン・グールド、その後ずっと平沢作品を聴き続ける毎日が続いた。職場復帰した後も調子が悪くなるとどうも平沢に手をのばす傾向があるらしい。妻に指摘されて初めて分かった。
CDが一段落すると今度はDVDに手をのばし始めた。初期のDVDを観ると、戸川純とテレビ通話で話すなど1990年代後期においてもうすでに今に繋がることをやっている。そして「インタラクティブ・ライブ」だ。平沢の創作した物語を下敷きにコンサートは以前書いたが正直言って物語自体は今観てもさっぱり分からない。
そのインタラクティブ・ライブが評価され、2001年には「インタラクティブ・ライブ・ショウ2000賢者のプロペラ」が(財)デジタルコンテンツ協会と経済産業省の共催するデジタルコンテンツグランプリ2001において、経済産業大臣賞及びエンターテイメント部門最優秀賞を受賞している。
2000年代には今敏監督作品の音楽を担当し、TVシリーズ「妄想代理人」、映画「千年女優」(←なかなかいい)や「パプリカ」(←傑作)の楽曲を手掛け、第79回アカデミー賞のオリジナル歌曲部門のノミネート対象作品に「パプリカ」のエンディングテーマである「白虎野の娘」が選ばれている。その他、アニメ「ベルセルク」シリーズの劇中歌や楽曲を制作している。
忘れていたことを思い出した順に書いていこう。
昔々1980年代初期に新日本プロレスの長州力のテーマソング「パワーホール」を作ったのも平沢である。あの時期上り調子だった長州はこのテーマソングでさらに人気者になっていった。みなさんも一度は聴いたことがあるだろう。
あと、珍しくロッキングオン・ジャパンで平沢がインタビューを受けたことが分かった。その時彼はソロ4作目を発表した頃だった。P-MODEL時代の話になり、「あの頃は対話を求めるファンとあまりにもまともに接しすぎて少々おかしくなっていた。だからラジオでも変な発言をする事件を起こしてしまった・・・。」と語っていた。何がどうなったかは分からないがそんなことがあったようだ。そして「森田療法」で何とか精神の落ち着きを取り戻したとも言っていた。
ソロ5作目(1995)からタイにかぶれた(もとい、影響を受けた)平沢は、音楽的にもアジアンな香りを纏わせるようになる。タイの中でもニューハーフのショーにはまったらしい。平沢は彼らのことを「SP-2」と呼び何回も現地を訪れて、本も刊行している(2008)。タイトルは「SP-2:タイのニューハーフ?いいえ『第2の女性』です」という。平沢は彼女たちのショーに感銘を受け、是非日本での私のショーに出てくれないかと、丁寧に手紙で依頼したらしい。それに感銘を受けたSP-2が日本にやって来た。そこから彼女達との長い付き合いが始まった。
サウンド自体は7作目(1998)までアジアンなタイ路線が大きな柱(彼女達にはレコーディングも参加してもらった)になっていたが、コンサートにはその後もゲスト出演してもらっていた。
2004年には平沢と進行の深かった9人のSP-2が相次いで亡くなったことを受け、追悼アルバムが制作された。SP-2の存在自体が、創作意欲に大きな影響を及ぼしていると彼は語っている。
時系列がごっちゃになって何が何だか分からなくなったが、これで平沢進関係の記事を一旦終わることにする。