今日は5時に目覚めた。最近の僕ならもう一度眠ろうとして布団にもぐり込んでいる。しかし待ちに待った火曜日である。今から17時までは自由時間だ。天気は午前中は曇りらしい。妻が出勤してからウォーキングに行こうと思う。
僕が大学に入学したのは、1983年だ。卒業したのが1987年。つまり1年留年している。1984年の後期に留年が決定したはずである。なんでこんなことを書いているかというと、バンド(「SIDE B」という名前だ)に在籍していた期間ってどれくらいだっけ?と思い出してみたくなったからである。
1987年の4月には友達も卒業し、バンドもメンバーの大学卒業で解散していた(いや、全員卒業したわけではない、と思う)。つまりSIDE Bは、1987年の3月に解散したことになる。僕の体感では2年くらいバンドに在籍していたように思うので、逆算したら1985年の夏に仲間に交ぜてもらったことになるのかな。
こんなに細かく何年と言えるのは、この時期だけだ。働き出してからは、あっという間に時は過ぎていったし、2000年になってからは、それこそあっという間である。2000年から26年が経ったなんて信じられないくらいだ。みんなも多かれ少なかれそんなもんじゃないかな。自分の青春時代の年は割とはっきり覚えていると思う。
とにかく僕は、1985年の夏から1987年の3月までSIDE Bにいたことにしよう。
バンド自体はその前から存在していた。でもドラムがいつからいなくなったのかは聞いてないなあ。とにかく僕は、1985年の夏にフラッと大学の軽音楽部がある建物に入り、バンドのメンバー募集の紙を眺めていた。ここら辺はチラホラ今までにも書いたことだが、今日は時間もあることだし、ガッツリと思い出してみよう。
おそらくは当時の友人だったワタナベ君(仮)と一緒に見に行ったんだと思う。その時は別にバンドに入ろうなんて思ってもいなかったんじゃないかな。怖いもの見たさ、みたいな感じだったと思う。何てったって楽器なんかなんも弾けなかったからね。でもドラムの募集をしていた「SIDE B」の紙には、「ローリング・ストーンズ」「ビートルズ」「イギー・ポップ」といったアーティスト名が書いてあった。他の募集の紙とは明らかに違うし、僕の好みにピッタリだった。
しかし、見ただけだった。いくら好みがピッタリとは言え、ドラムなんかやったことないし、「俺がバンド?笑える」くらいにしか思っていなかった。でも段々気持ちが盛り上がってきて(なんせ若かったからね)、勇気を振り絞ってSIDE Bが練習している時間に、軽音楽部のドアを叩いたのであった。
この後のことは書いたことがあるので省略しよう。メンバーは、JUNさん(ギター)、wakabyさん(ギター)、タカミヤさん(仮)(ベース)、サントー君(仮)(ヴォーカル)、そして僕hanamiがドラムスである。その時バンドでやってた曲を思い出してみるか。
「アンド・ユア・バード・キャン・シング」ビートルズ
「ジャンピング・ジャック・フラッシュ」ローリング・ストーンズ
「タワーズ・オブ・ロンドン」XTC
「レスペクタブル・ストリート」XTC
「エッグス・オン・プレイト」イギー・ポップ
「デイ・トリッパー」チープ・トリック
「ミドル・オブ・ザ・ロード」プリテンダーズ
うーん・・・あと何だっけ?オリジナル曲はやってなかったから、全部カヴァーだったはずなんだけど。XTCの2曲をマスターするようにJUNさんに言われて、ドラム教室に通った。だからこの2曲は、完コピ(フィルインもOK)したけれど、後の曲は只管8ビートを刻んでいたはずだ。
8月に加入した僕は、その2か月後に学祭に出ることになる。うーん・・・記憶は定かではないが、3日演奏する機会があったんじゃないかな。演奏時間は大体30分くらいだった。
段々記憶が怪しくなってきたが、しばらくしてサントー君が来なくなり、結局バンドを脱退することになった。後で聞くと何か事情があったようだ。そしてそんなに間が空くこともなく、新しいヴォーカルが入った。テラモトさん(仮)である。
僕とwakabyさんとサントー君は同級生で、タカミヤさん、JUNさん、テラモトさんは1つあるいは2つ年上だった。
テラモトさんが加入してから、オリジナル曲を作ろうという機運が高まり(誰からかは分からない)、解散するまでに6曲くらいオリジナルの曲をライヴで演奏してたんじゃないかな。
「ヘイ・ジョー」
「ストリート・ハンター(よく覚えていない・・・)」
「赤いべべ着た少年少女」(これがタイトルなのか不明)
うーん・・・まだあったはずなんだけど。思い出せないぞ。上の2つは、作詞テラモトさんで作曲はJUNさんだったのかなあ?3つ目は、タカミヤさんが作詞作曲だと思うんだけど。この曲は好きだったなあ。
当時は今の僕と同じように、あんまり歌詞を聴いていなかった。一応「誰だ、ジョーって?」とか「ストリート?うーん・・・そんなもの金沢にあるのかなぁ・・・」とか心の中でツッコミは入れてはいたが、勿論意見することはなかった。
タカミヤさんは、僕の勝手なイメージだけど音楽全般に明るい人で、この曲にはこういうベースでって考えて演奏していたと思う。JUNさんは、主に豪快なリフ担当だった。wakabyさんは、そんな時サイドに回り、ソロになると前に出る、みたいな感じだった(ですよね?)。僕は、な~んも考えていなかった。ベースに合わせて叩くとかそんな意識は薄かったように思う。
そんで学祭には毎年出てたんだけど、他でもライヴしようぜってなって、ビルの屋上のビヤガーデンで演奏したり、なんかのコンテストに出たり、酒場で演奏させてもらったりした。僕の地元まで遠征して、駅前でやったこともあったな。
それから、何故だか分からないけど、いつしかやたら写真を撮るようになったのも覚えている。ライヴの写真ではなくて、ライヴ前とか練習の様子とか、深夜練習した後に校舎でモノクロ写真を撮るとかしてたな。その写真は今も保存してある。
そんな下手っぴいな僕を受け入れてくれた優しい人たちだったが、僕が一度だけ強く主張したことがある。
ある年の学園祭で、1日だけ野外でやることになった。しかし、当日ドラムセットは用意されていないことが分かった。メンバーは「そりゃーしゃーないわ」と諦めていたが、僕は猛然とした調子で言った。
「いえいえ、やりましょうよ。楽器屋でもどこでも聞いて回って貸してもらいましょうよ」とまあ僕にしては珍しく強い口調でまくしたてたのだ。メンバーは「うーん・・・じゃあ聞いてみるか」ってなって、どっかの楽器屋さんからドラムセットを借りる算段をして、誰かの車でそれを会場まで運び、無事ライヴが行われた。
恥ずかしいけれど、僕が猛然と主張したのには理由がある。僕が好きだった先輩のトウモトさん(仮)が、そのライヴを見に行くよと約束してくれていたのだ。そればかりか、「これ付けるとかっこいいよ」と言って、鎖のイヤリングを貸してくれたのだ。そこまでしてくれたからには、ライヴは決行せねばと思った僕は、「ドラムセット借りよう!」と強く主張したのだ。
トウモトさんは、最前列でSIDE Bの演奏を聴いてくれた。ライヴが終わった後、イヤリングを失くしたことに気づいた僕は、トウモトさんに謝った。トウモトさんは豪快な人なので気にもしなかった。まあライヴの感想は言ってくれなかったけど。このこと(ドラム無理矢理借りよーぜ事件)は、きっと誰にも話していないはずである。
今でも「やっちまったなー」と思うのは、当時のライヴを録音したカセットを大断捨離の際に廃棄したことだ(10年くらい前)。世の中がこんなことになるとは思ってもみなかった。
↓↓↓↓ これくらいなら、修正しなくても誰も文句言わないかな?まずかったら言ってね。この写真は1987年1月26日に撮影したものである。やはり、この年の3月にバンドは解散したのだ。

この頃から、「SIDE Bの楽曲をちゃんと録音して残そうぜ」という機運が高まった。問題は僕のドラムだ。大問題である。そこでJUNさんにクリック音を聴きながらドラムを叩くよう指示され、僕は必死になって楽譜のようなものを作った。そしてメンバー全員がスタジオに入り、僕だけドラムを演奏した。その後のことは知らない。きっとJUNさんの家で各パートを録音したのだろう。
完成したテープをJUNさんが持ってきてくれた。それにマルチトラッカー(だっけ?)も持ってきてくれて「hanamiの好きなようにミックスしていいよ」と言われたのだ。下手くそなくせに僕は、自分のドラムの音量を思いっ切り上げて自分だけのテープを作った。
そんなこんなで僕のバンド人生は風のように過ぎ去っていった。しかし、これを書いている途中で思い出した。僕はその後1回、1曲だけライヴに参加したことがある。
働き出してから1年ほど、金沢まで行ってドラムを習っていたことがあった。その時に「発表会に出ない?」と誘われ、急造バンドの一員となったのだ。リンドバーグの曲だったように思う。そのバンドのリーダーがいい人で、みんなに声をかけ自宅にまで誘ってくれた。そのかいあって仲良くなったメンバーで楽しく1曲演奏したことがあったな。妻も見に来たので30歳ちょい前のことだと思う。曲はともあれ、楽しかったなあ。
その後は、初期の記事に書いているように、ギター教室の先生が主催するライヴに出たり、1人(または2人で)で駅前で歌ったりしていた。今では信じられない。今、でっかい声で歌うとすぐに喉が痛くなり、「おえ~」って空ゲボ状態になってしまう。
というわけで、来週の土曜日にJUNさんとwakabyさんとでスタジオに入ることになっている。楽しみしかないよね。
4000字弱書いちゃった。それでは。