昨夜は久しぶりに21時前に眠くなって、「よく寝たなあ」と思ったら23時だったという事態が起こった。「久しぶりだなあ」と思い、リビングに異動した。煙草を1本吸い、お茶を飲み、再び寝室に戻った。
そこからは恒例の悪夢である。悪夢と闘いながら眠ろうと努力し、でも悪夢に負けてコーヒーを淹れることにした。午前5時である。働いていた時は、そこから記事を書いていた。今日はリビングでウトウトし、目がハッキリと覚めたのは、午後8時を過ぎた頃だ。
今日は、妻と有名な味噌ラーメンの店に行く予定である。雨も降っているし、ウォーキングはできない。それに大谷選手の登板日でもある。今からシャキッと気持ちを入れ直し、1時間頭を使おうと思っている。
今日書きたいのは、「最近気になっている言葉」である。これを思いついたのが3日ほど前で、妻にも話していた。3つあったんだけど、ひとつどうしても思い出せない。こういう時はすぐに何かに残しておかなければいけないね。
まずは「解像度を上げる」という言葉である。本来は画像などの細かさを高めるという意味であるが、今やあらゆる方面で使われている。
AIによると、“曖昧な表現を避けて、主語・目的語・条件・期限などを具体的な言葉で示し、相手が同じイメージを持てるように言い換えること。「ちゃんとやって」ではなく、「今日中にA案とB案を書く3案、資料にまとめて提出して」といった表現にする”ことだという。
ベンジーもだいぶ前に「細かすぎるのは生まれつきだ 言ってみれば解像度高めなんで 幸せはそういうことから始まる」と歌っている。2018年のことだ。
あれから8年。僕の体感では、一昨年頃からよく使われるようになったと思っているように思う。「気になる」というのは、「もう少し具体的に言って」とか「誰に向けて?何をするの?」とか言えばいいんじゃないか?と思うからである。「解像度を上げる」という言葉そのものが抽象的なんじゃないか、って思っちゃう。
ってことは、今はちょっと流行りというか、こういう言い方をすればかっこよくない?みたいな使われ方をしているように感じるってことだ。
おんなじようなことを「共有する」という言葉にも感じる。さっきAIが述べていた中に“相手が同じイメージが持てるように”という言葉が出てきたが、要はそういうことだと思う。
具体的な事象を複数の人が同じイメージを持つことは、仕事をする上では欠かせないことだ。それは分かるんだけども、あくまで「情報として」同じイメージを持つことが大事であるという意味だと僕は思っている。それを何でもかんでも「共有」という言葉で済ませているっていう感じが拭えないんだよね。
僕の場合は仕事と言うと教育現場のことしか考えられないので、そっち方面で書くしかない。例えば「何時にここで何をするか」とか「AとBの間で、こういう事実があり、それでトラブルが起こった。つまりAが『バカ』と言い、Bが怒って平手で頬を叩いた」とかね。
しかし、学校研究で今年度のテーマを決めましたといっても、この時点でどんな授業に取り組んでいくのかということを共有したとは言えない。そして次々と研究授業が行われ、その後授業整理会が行われたとしても、学校研究のテーマにどう迫ったか或いはこういう点で迫れなかったかということも共有されることはない。授業には、各先生の授業観なり児童観なり学級観があって、言ってみればバラバラなのが普通だからである。同じ職場にいるからといって、みんなが同じゴールを目指しているとは限らないのが学校という場所だ。
ここが企業とは違うところなのかもしれない。企業は結果を出さなければ話にならないところなので、プロジェクトチームみたいなものがあったら、全員同じゴールを目指さなければいけない。だからこそ共有という考えが大切になってくると思う。
世の中は教師よりサラリーマンや自営業をしている人の数が圧倒的に多いので、「共有する」という言葉に違和感を抱いている人は少ないのかもしれない。
あといっこ気になる言葉があったんだけど、やっぱり思い出せないんだよなー。弱ったものだ。あ、でも最近は僕も丸くなって、あれほど許せないと思っていた「なので」という言葉をスルーすることができるようになった。これは成長と捉えたい。
それに僕自身が嫌うであろう言葉も平気で使うようになった。思いつくところで言えば「~感」「うざい」「キモ」「めっちゃ」である。どれも随分前から使われている言葉ではある。記事にも「~感」「めっちゃ」は使っているし、妻の学校での酷い話を聞いて「キモ」と言うことが多々ある。これらは、働いていた頃は絶対に使わない言葉であった。
今、どうしても受け入れがたい言葉は「違くて」である。これだけは許していただきたい。しかし僕が応援している若手の俳優の多くがこの言葉を使うので弱っている。
最後に国語の教科書を出版している光村図書でも若者言葉について言及しているので一部引用させてもらおう。
形容詞編としての箇所である。
「きしょい=気色悪い」(平成以降)
「ぱない=半端ない」(1990年代)
「うざい=うざったい」(1990年代)
“こちらは既に一般にも普及している言葉たちではないでしょうか。元々ある形容詞を省略したものですね。米川明彦先生は「若者語を科学する」(1998)の中で、「日本語には形容詞が少ないため、若者は新たに造語して不足を補い、かつそれを使うことを楽しんでいた」と指摘しています。つまり、日本語の形容詞が増えていくのは自然の流れであり、登場した当初は若者言葉であっても時間を経て定着していくものも多々あるということがうかがえます”
このようなことは、きっと平安時代頃(清少納言や紫式部が活躍していた頃)から普通に行われていたのだろう。それに橋本治という大文豪が「桃尻娘」(1978)でデビューした頃もきっと文壇から彼の言葉遣いにやいのやいの言ってたはずである。つまりは光村図書が書いているように、これは自然の流れであるということである。老人は心して若者言葉を受け止めなければならないのだ。
大谷選手は、第1打席の初球をホームラン。その後5回を無失点に抑える。防御率は0.73という冗談のような数字になる。5回1死満塁のピンチもダブルプレーで抑える。一人で打って一人で抑える。YouTubeは大騒ぎだ。
そんな大谷の活躍を見届けた僕は妻と一緒に味噌ラーメンを食べに外に出た。ついでに僕の母にシューズを届けたいと妻が言ったが、僕は否定的な態度をとった。
車を発進して5分ほど経ったら謎のランプが点いた。危険のランプも点いている。一旦停車して、色々調べたが異常はなかった。そしていざラーメン屋に向かおうとしたら、今日は閉まっていることが分かった。この時点でかなり緊張感漂う車内だった。
気を取り直して蕎麦屋で昼食を摂ったが、妻は無言だった。帰宅してすぐに僕は母のシューズを取り、「私が行くって」という妻を振り切り実家に向かった。
3時間ほど外にいて帰ったが、妻は2階の部屋に籠もりっきりである。今年最大の緊張感が家の中に溢れている。もうすぐ17時で夕食を作り始めようかという時刻だ。そして僕は腰が痛い。今から記事をアップすることにしよう。何故腰が痛いかは次回書くことにしよう。
それでは。