人は物語を求めている のか?

今日ショックだったことがあったので簡単に書き留めておきたい。先週の土曜日にふと「そろそろ精神科の診療日だな」と思い、受診票を見た。「25日(月10:00~10:30)」と書いてあるのを確認した僕は、「明後日だな」と思い、頭に叩き込んだ。

 

 

そして今日、「今日は受診日だ」と思い、病院に行った。必要な書類を書き込み(勿論5月25日と書いた)、受付に行って受診票等を提出した。しばらくして「hanamiさん、受診日は来週ですけれど、変更されましたか?」と訊かれた。

 

 

 

僕は一瞬何を言われたのか分からなかったが、その次の瞬間に分かった。「(今日は18日で)来週だったのか!」と。僕は「すみません、間違えていました」と言い、そそくさと病院を出た。そして自分に呆れながら家路に着いた。

 

 

 

受診日を忘れて行かなかったことはあるけれど、こういうケースは初めてだった。ちょっとショックだったなぁ。自分の悪いところのひとつは、思い込みが強過ぎることだと思っている。それで失敗したケースは数限りなくなくある。しかしこれはないだろ?ちょっとあんまりだ。

 

 

 

そういうわけで割と打ちひしがれている僕であるが、気を取り直して今日も元気よく記事を書いていきたい。

 

 

 

 

 

 

今日は、大層なタイトルを書いてみたがそんなに高尚なことは書けないのは皆さんもご承知のことだろう。僕はただ単に「未だに本って出版され続けているんだなあ」「新しく作家がボンボン出てくるんだなあ」「本だけではなく、テレビやサブスクでも常に新しいドラマが提供され続けているなあ」と思っているだけである。

 

 

 

前に若者は「ながら」でできることを好む、というようなことを書いた。しかし本を読むという行為は、ながらではできない。ストーリーに集中しないといけないし、飛ばし読みもしないだろう。出版業界は大分前から冬の季節だと言われていたような気もするが、「いやいや盛り上げていこうぜ」という気運も感じる。果たして若者を含む人々は本を習慣的に読んでいるのだろうか?

 

 

 

どうしてこんなにもたくさんのお話が生まれてくるのだろう?題材が変わったのだろうか?でも物語というからには、結局のところ人間関係について語っているはずである。固定電話が携帯電話になり、スマホになり、SNSが発達しても、基本的には人間関係がどうで、その後こうなったっていう話になるはずである。

 

 

 

となると、大体は喜怒哀楽に関わる話になるはずである。そこに「今だからこそこういう物語が生まれる」という要素はあるのだろうか。きっとあるんだろうな。

 

 

 

話は変わるが、妻は日常的に本を読む人である。4月になってからはその傾向に更に拍車がかかっている。その妻が昨年から事あるごとに「朝井リョウが・・・朝井リョウの○○は・・・」と言っている。朝井リョウは「イン・ザ・メガ・チャーチ」で本屋大賞を受賞した作家だということくらいは知っていて、地上波やYouTube動画によく出演していて、非常に喋り上手だということも何となく知っていた。

 

 

 

「イン・ザ・メガ・チャーチ」の本の帯にはこう書かれている。

 

 

 

「神がいないこの国で人を操るには、“物語”を使うのが一番いいんですよ」

 

 

 

この一文が非常に興味深かったので、ちょっくら調べてみた。朝井リョウは次のように語っている。一応書いておくが、僕は朝井リョウの作品を1冊も読んでいないし、勿論「イン・ザ・メガ・チャーチ」も読んでいない。

 

 

 

“作品の舞台は、ファンが好きな対象を熱心に応援することで成長を続けている「ファンダム経済」です。「推し活」を土台とした経済圏、といえば分かりやすいでしょうか。その仕掛けを「構築する側」「仕掛けられる側」「かつて深くのめり込んでいた側」の3つの視点で物語を書きました”

 

 

 

“(帯の言葉は)好きな対象を応援する側というよりは、集団心理を操作する側の方に焦点を当てています”

 

 

 

“この小説の連載が始まったのは2023年ですが、本になった今、選挙をはじめとしたさまざまな場面で、この小説で書いてみたかったことの片鱗を感じ取ることがあります。この感覚をみなさんにも共有していただけるとうれしいです”

 

 

 

先の帯の言葉は、操作する側に立ったものだと書いているが、つまりは物語というものは、(読者にとって)いいことばかりではなくて、そうではないこともある、とも受け取れる。

 

 

 

そして、SNSではこの作品に対する考察がバンバン出回っている。「物語とは何か?」「人はなぜ物語に従うのか?」「人は『現実』ではなく、『物語に従う』」等々の言葉で溢れている。これ以上この作品について書くとしたら、実際に読まないと書けない。読んでも書けないような気もする。しかし、この作品を読んだ人たちは、きっと何を受け取ったんだろうな。だからこそ本屋大賞になったのだろう。つまり「イン・ザ・メガ・チャーチ」は物語として機能していたということになる。

 

 

 

もういっこ、妻は言っていた。「書店によって品揃えが違う。○○(書店の名前)なんて『イン・ザ・メガ・チャーチ』の扱いが雑だ」「それに今本屋に置かれているのは、漫画、写真集、若い人向けの雑誌、軽めの新書が非常に多くて、年寄りが近づいてみるべきものがない」だって。

 

 

 

漫画は物語だと思うんだけど、他の物はそうではない。ってことは若者は物語を求めてないのかなー。先ほど書いた朝井リョウの作品では、「推し活」について書かれているけれど、そういったものに「物語性」のようなことを感じているかもしれない。

 

 

 

何だかとりとめのないことを書いているようだ。いつものことなんで気にせず続けよう。

 

 

 

 

僕が今読んでいるのは、「月夜行路」(秋吉理香子)だ。これは、この春ドラマで観ていて面白いので、読んでみようとなった作品である。殺人事件が起こるので、推理小説とも言える。この推理小説というジャンルも廃れていないというか、まだまだ健在なようである。ドラマでも必ずどこかの局が、警察モノを放映している。

 



「月夜行路」に話を戻そう。主人公の一人である野宮ルナは、バーの経営をしていると同時に文学マニアでもある。ひょんなきっかけで相棒になった沢辻涼子と様々な事件に出くわすが、「本にはあらゆる知識が詰まっている。悩みへの答えも必ずある」「昔も今も人間の根本は変わらない。現代の悩みは過去にもあった。同じ悩みに人々がどうやって向き合ってきたか、文学を通して学ぶことができる」と言い、文豪たちが書いた諸作と自身の観察眼、考察力を元に難事件を次々と解決していく。

 

 

 

この言葉に引っかかったのだ、僕は。文豪たちがほとんどのことを書き尽くしているなら、現代の作家たちはその再生産をしているだけなのか?そう思った。

 

 

 

村上春樹は「小説を書くという行為は、一人で深い井戸の底に降りて行って何かとコミットしていくことだ」みたいなことを言っていた。つまり(小説を書くというのは)非常に個人的な行為だということだと思う。

 

 

 

 

僕自身が答えを持っていないのに今日みたいなテーマを考えるのは、あまり生産的ではないかもしれない。でもまあ、今日は物語について考えてみたくなったので書いてみた。そういうことにして今日の記事を終わろう。

 

 

 

 

それでは。