只今午前8時。なんか閃いたのでこのタイトルで書けるところまで書いてみよう。
でも世界が大変なことになってるのに、日本の国会はカタログギフトとかサナエトークンとかの話をしている。そしてこんな不平を書いてる僕も家でのんべんだらりとしている。これが今の日本なんだな。
さてと、今日の本題にいってみよう。
十七条憲法とは、604年に聖徳太子が役人の心構えとして制定した日本初の成文法だ。「日本書紀」などに皇太子自らが起草したことが記述されている。
第一条は何か知ってる?「和を以て尊しとし、むやみに反目し合わないのを教義とせよ」である。じゃあ第二条第三条は?
第二条は「篤く三宝を敬え。それは仏、法、僧である」である。
第三条は「天皇の勅語を承ったのなら、必ず謹んで従う」である。
聖徳太子は、当時最も優れた知識人の一人だった。しかも皇太子で世が世なら天皇になっていた人物である。しかし彼は、その道を選ばず摂政として推古天皇の傍で政をする。また、当時は優れた知識人=仏教推進派という図式も成り立っていた(多分)。
つまり、聖徳太子は天皇の意義にも仏教の教義にも精通していたことになる。その彼が、憲法の最上位として「和を以て貴しとなす」と位置付けた。「和」とは、平たく言うと「話し合って物事を決めろ」ということだ。彼は何故「和」を一番に据えたのだろうか?
答えは、当時の日本人が一番大切にしていたものだとも言えるし、当時の世相が争いにまみれていたからだとも言える(多分)。
どちらにしても確かなことは、当時の日本民族にとって「和=話し合い」が、意見を決めるのに有効な方法だと考えていたということだ。そのことを知っていた聖徳太子は、自分の出自となる皇族(天皇)よりも、今自分が一番推している仏教よりも「和」を重視した(のかもしれない)。
第3条までは知っている人も多いと思われるが、では十七条はどううだろう?何が書かれていると思う?
それは「念押し」である。最初に一番大事なことを書いたからには、最後にもう一度念押ししておく。これは道理にかなっている。「人夫の事柄の独断はよくない。必ず大衆に論議を与える」と始め、違う言葉(←「独断はよくない」)で念押ししている。
聖徳太子が喝破した日本民族の特性である「話し合いで物事を決めることを是とする」というのは、現代にも通じることなのだろうか?僕は通じると思っている。学校でも学級会や職員会議がある。会社でも色々な会議がある。取り敢えず関連する人を集めて、「形として話し合う」ことが至る所で行われている。
でも、残念なことにそれは本当の意味の話し合いではなく、ほとんどがゴールありきであったり、酷い時には報告で済ませたりすることの方が多いように思える。大事なのは、「その場に居合わせる」ことだ。
その場に居合わせた人たちに待っているのは、「空気を読む」こととか「同調圧力」、「まあまあ、そこは穏便に。大人なんだから」なんていうややこしい特性だ。加えて責任の所在が曖昧になりがちなのも「話し合い」というシステムに起因しているかもしれない。
以上が、十七条憲法に対して僕が思っていることだ。
このような日本人の特性に基づいて日本国憲法と日教組について書こうと思ったのだが、どうも繋がらないかもしれない。繋がらないかもしれないが、書いてしまおう。
戦後80年間、日本人は日本国憲法という(乱暴に言ってしまえば)アメリカ主導で決められたものを改正しないで守ってきた。特に第9条に絡めて平和憲法などと言われ続けている。僕は自衛隊を持った瞬間から日本は軍事力を持ったと思っているので、そのことは明記しなければいけないと思っている派である。
しかし、世の中の人はそう思っていない人の方が多いようだ。護憲だなんだと言って頑なに憲法改正に反対する人もいるし、憲法を拡大解釈して自衛隊を合憲だと言う憲法学者もいる。
調べてみると「条文の形式的文理解釈だけからすれば、自衛隊を違憲と考える余地もあると思いますが、総合的に考えて違憲とするのは現実的ではありません」なんていう文にも出くわした。
また「自衛隊を憲法に明記することで、原則と例外が逆転し、軍事的組織である自衛隊へのコントロールが効かなくなり、その結果、国民の権利や自由の保障が後退せざるを得ないといった問題点が指摘されている」というデメリットも書かれていた。
一応第9条を書いておこう。
第9条:日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
この憲法と自衛隊のことを授業でやる時に、児童にどう説明すればいいん?整合性がないんだけど・・・というのが僕のシンプルな疑問である。論争が起きるというか、いかようにでも解釈できることを憲法の文章に書いてていいのか?そしてそんな状況を児童に伝えていいのか?というのが長年の僕の疑問であるし、今も解決していない。
僕の住んでいるところには、自衛隊の航空基地があって、小学校の窓は防音で全部2重窓だった。それでも戦闘機の演習の時は爆音で先生の言葉は全く聞き取れなかった。もしかしたら無意識のうちに戦闘ってのはこういうことなんだっていうことを刷り込まれていたのかもしれない。それがさっき書いた僕の疑問のきっかけなのかもしれない。
自衛隊は合憲か違憲か論争になるとすぐに日本が軍国化するとか言う人がいるけど、本当に他国に攻め込まれたら何て言うんだろう。これもシンプルな疑問だが、僕の中では解決されていないことだ。加えてこれから石油の輸入がままならなくなるってことになると、タンカーに護衛艦をつけるとかという話になる可能性があるけど、これに対しても野党は反対するのだろうか?
こういうところに日本人の欺瞞性というか、「まあまあ、そんな熱くならずに。大人なんだから」という雰囲気を感じる僕は異常なんだろうか?または浅はかなのだろうか?
今の自民党の勢いで憲法改正なんかしちゃったら、あっという間に天皇が元首として認定されちゃって、国民の権利なんか吹っ飛んじゃうよという意見もある。しかし憲法を改正するには、最終的に国民の過半数の賛成が必要だ。変なこと(天皇主権とか緊急事態条項とか)を決められそうになっても過半数の人が賛成するという愚かな判断を国民がするのだろうか?
おんなじことを日教組にも感じる。これは何度も記事にしてきたから今更な話なんだけど、簡潔に言うと「なんで、教諭の時にガンガン管理職にたてついてきた奴が、平気で管理職になるんだ?」である。これも憲法と同じ欺瞞性と「まあまあそんな熱くならずに。大人なんだから、それはそれで」という日本人独特の考え(或いは姿勢)を感じる。
日教組への勧誘も同様である。入らないとこちらが言うと、変な人扱いをされる。そして「あなた何も分かってないのね」といった顔つきで説教される。まるで僕が悪いことをしているような扱いだ。そして組合に入っていない人のことを「未組」と言って差別するのだ。
十七条憲法・・・日本人は「和」(話し合い)を最も大切にする民族
日本国憲法・・・何で自衛隊のことを書かないの?
日教組・・・なんで文句言ってた人が管理職になるの?
今日書いたことは、この3つだが、やはり上手く繋げて書くことはできなかった。3つとも日本独特の考え方だと思うんだけどなー。でもまあしゃーない。これだけ書けた、ということにしとこう。タイトルに「日教組」って書いたのも初めてだしな。
それでは。